第18話 届いた包み
包みが届いたのは、朝の霧がまだ引かないうちだった。
裏門で荷を降ろしていた下男が、名を読み上げた。組合からである。麻布に包んで紐で十字にかけた、本の形をした荷だった。
「お検めは」
ヴィルヘルムが紐の結び目を見た。結び目の上に、組合の封蝋が押してある。
「結構でございます」
家令は包みを持ち上げて、重さを確かめる手つきをした。
「……重うございますな」
「本のようでございますね」
「はい」
それだけの会話だった。家令はそれを彼女に渡し、荷の残りのほうへ行った。
組合の封蝋は、この家の家令が破ってよいものではない。屋敷の中で交わされる紙とは筋が違う。三月前に上着の内側へしまわれた封筒のことを、リゼットは一度だけ思い出して、それ以上考えなかった。
半期報告の綴りが返ってきたのだと思った。
厚みが合っている。次の期の報告用紙も入っているのだろう。
部屋へ持って上がって、寝台の上で紐を切った。
麻布を開いた。
古い帳が、一冊あった。
背が二度、三度と綴じ直されていて、糸の色が層になっている。革表紙の角は擦れて丸くなり、下の芯が覗いている。親指の当たる位置に、手垢の跡が二つ。
二月前に、王都の奥の間で見た帳だった。
その上に、書付が一枚載っている。組合の書記の字だった。事務の紙である。日付と、要件と、控えの番号。
ヨセフィーネ、渡り成れり。十月十四日。立会いなし。
立会いなし。
リゼットは、その四文字を三度読んだ。
泣き女の渡しには、泣き女が立つ。組合の決まりである。四十年勤めた者なら、稽古場の娘が十四人いる。誰でも行ける。行かせないためには、組合に報せが行かないようにするしかない。
行かなかったのではない。
呼ばれなかったのだ。
日付を数えた。
十月十四日に、渡りが成った。
包みが組合を出たのは、二十日。始末がついてから送られている。
届いたのが、今日、二十六日。
十二日である。
この十二日のあいだ、彼女は屋敷で白布を洗い、襟布を直され、図書室で三年ぶんの使用人録を見て、痩せましたわねと言われていた。
王都までは片道六日。
報せがその日に飛んだとしても、着くのは二十日。そこから発てば二十六日。渡しはとうに終わっている。
どう数えても、間に合わない。
彼女は寝台の縁に座って、膝の上の古い帳を見ていた。
四十年ぶんである。ラングヴァイ家の渡しが二十年ぶん載っている。先代の公爵、その前の奥方、女中、御者、そして六年前の若い方。そして──載っていないものが、載っていないという形で二つ入っている。
この帳が、突破口だった。
突破口を送るために、この人は自分の分の紐をほどいたことになる。
リゼットは頁を繰った。
繰るのは掟に触れる。他人の帳を読むことは、見せることと同じ重さで禁じられている。
繰った。
ラングヴァイ家の頁は、後ろから四分の一のあたりにあった。
五百六年の春。若い方の渡し。喪主の欄に、当時の当主の名。立会いの欄に、この人の署名。備考の欄に、鉛筆で一行。
泣きが余る。喪主、泣かず。
泣きが余る、というのは職業の言い方である。こちらが声を出しても、遺族の呼吸が乗ってこない。泣き女が一人で夜を持ち上げることになる。
この人は六年前に、あの広間で同じものを見ている。
五百七年の頁を繰った。
侍従長の渡しは、載っていない。
載っていない代わりに、日付だけが書いてあった。
五百七年 三月 呼ばれず。ラングヴァイ。
五百十一年にも、同じ形の行があった。
五百十一年 九月 呼ばれず。ラングヴァイ。
載っていないものが、載っていないという形で載っている。
リゼットは指を止めた。二月前に王都の奥の間で聞いた言葉が、そのまま紙の上にあった。
それより前の頁へは、戻らなかった。四十年ぶんある。今日はそこまでの気力がなかった。
最後の頁まで飛ばした。
四十年ぶんの最後の行の下に、空きがある。そこに、鉛筆で一行だけ書かれていた。インクではない。手元にあったもので、急いで書いた字だった。
帳を持ちな。あたしの分もだ。
筆圧が強い。最後の「だ」の払いが、紙を少し破っている。
この人は、来ると分かっていた。
分かっていて、王都の門前で、日陰の犬を見ながら、お前さんの心配はしてないよと言った。
中庭に出たのは、日が落ちてからだった。
十月の夜は冷える。井戸の縁に霜が降りはじめていて、手をつくと指が張りついた。草の匂いが夏より鋭い。どこかで水が落ちている音は、あの夜と同じだった。
リゼットは井戸の脇に膝をついた。
誰もいない。屋敷の窓はどれも暗い。
彼女は息を吸った。
六年である。六年、毎晩のようにやってきた。喉を開いて、腹から押し上げて、天井に当てて割る。低くも高くもできる。途切れさせることも、満たすこともできる。王都でいちばん高い声だと言われている。
息を吸って、開いた。
出なかった。
もう一度吸った。喉の奥が閉じている。閉じているというより、そこに何もない。押しても、叩いても、水の一滴も上がってこない。
器に、自分の水を入れてはならない。
入れないように六年やってきた。やってきたから、入れ方が分からない。
試しに、仕事の型を使ってみた。
庭師の家で使った低い型。文書係の礼拝堂で使った中庸の型。九人しかいない礼拝堂で使った、いちばん強い型。
喉を開く手順は体が憶えている。腹の力の入れ方も、息の配り方も、口の形も。全部そのとおりにした。
声は出た。
仕事の声だった。
夜の中庭に、雇われた泣き声が短く上がって、すぐに消えた。彼女は口を押さえた。押さえた手のひらに、自分の息の熱だけがあった。
これではない。
彼女は井戸の縁に額をつけた。
石が冷たかった。
十一年前にも、同じことをしている。母の棺の前で、一晩、同じことをした。あのときも出なかった。あのときは組合に入る前だったから、掟のせいではないと自分に言ってきた。
掟のせいではなかった。
最初から、こうだった。
足音がした。
顔を上げないまま、彼女は膝の上で指を組んだ。組んでも震えは止まらなかったが、震えているのは寒いからだ、ということにできる。
オルデリクは、何も訊かなかった。
彼は井戸の脇まで来て、そこで立ち止まり、膝をついている彼女の脇にしゃがんだ。しゃがむ音が、外套の裾が石を擦る音でわかった。
膝の上に、布が置かれた。
白い。たたんである。目の詰んだ麻で、毛羽が立たない。
「今夜は、いい」
それだけだった。
彼は立ち上がり、来たときと同じ歩幅で戻っていった。慰めなかった。名前も呼ばなかった。
リゼットは、膝の上の布を握った。
握ったが、濡らせなかった。
「帳を持ちな。あたしの分もだ」
わたくしは声を上げようとして、上げられませんでした。
六年間、毎晩泣いてきた喉が、その夜だけ動きませんでした。




