第29話 一枚目に書く名
明日の準備をしていた。
五月九日の夜である。窓の外は霧で、湖のほうから水の匂いが上がってきていた。渡し日和だと領都の者が言う晩だった。
白布を三枚たたむ。返名の儀では顔を覆わない。覆うのは泣くときだけで、明日は泣かない。それでも持っていく。持っていくのが決まりになっている。
帳を二冊、机に並べた。
返す名を、声に出して読み上げる。六年、毎年やってきた手順である。当日に読み間違えれば、その名は返らない。前の晩に必ず一度、順に通す。
自分の帳から、五つ。
シビル・ラングヴァイ。
ヨナス。
マティアス。
ライナル。
ゲルト。
声に出しても、この部屋では誰も聞いていない。喪が明けるのは明日の夜である。厳密には、まだ口にしてはならない。六年、この一晩だけは組合が黙認してきた。
順序も決まっている。預かった名が先で、繰り越しの名が後。最後に、その年に返し終えた数を司祭へ申告する。
読み上げのあいだ、参列の者は口をきいてはならない。
例外が一つだけある。
読み上げられた名の主が生きていれば、その者は応えてよい。応えれば、その渡しは無かったことになる。名簿から名が消え、法の上でもその者は死んでいなかったことになる。
六年で、応える声を聞いたことは一度もない。当たり前である。読み上げるのは、死んだ人の名だからだ。
次に、師の帳を開いた。
四十年ぶんの、最後のほうの頁である。返しきれていない名が並んでいた。
返らなかった名は、翌年へ繰り越される。繰り越された名は、次に立った泣き女が返す。それが決まりだった。決まりだから、四十年やった人の帳には、繰り越しの列がある。
その列の下に、鉛筆で書き足された行が二つあった。
五百七年 三月 呼ばれず。ラングヴァイ。リカルド。
五百十一年 九月 呼ばれず。ラングヴァイ。エルマ。
名前が、書き足されている。
十月に受け取ったときには、日付と家名しかなかった。この二行だけ、字が新しい。書いた時期が違う。
── 名を後から調べて、書き足した人がいる。
最後に、一つ。
ヨセフィーネ。
立会いなしで渡された泣き女の名である。誰も預かっていない。誰も返していない。返す者は、帳を継いだ人間ひとりしかいない。
八つになった。
師の帳を閉じようとして、彼女は手を止めた。
四十年ぶんある。
十月に受け取ったとき、後ろから四分の一のところまで繰って、そこでやめた。それより前の頁へは戻らなかった。あの日はそこまでの気力がなかった。
半年、戻っていない。
彼女は蝋燭を引き寄せて、前のほうを繰った。
五百十年。五百八年。五百六年。字が少しずつ若くなる。同じ人の手だが、筆圧が違う。四十年書き続けた人の字は、年ごとに形が変わっていく。
五百二年。
五百一年。
指が止まった。
五百一年 二月 ヴァレンド子爵家 アニェス・ヴァレンド
呼ばれず。泣き女なし。預かりなし。
部屋の中の音が、全部遠くなった。
呼ばれず、というのは、話が回ってきたということである。組合に死の報せが入り、割り振りが検討され、そこで止まったということだ。止まった理由は、その家に金がなかったからである。
泣き女なし。
あの夜、母のために泣く人間は、家に一人しかいなかった。十一の娘である。娘は一晩、棺の前に座って、喉に手を当てて、押しても叩いても何も出せなかった。
預かりなし。
誰も、母の名を預からなかった。
預かる者がいなければ、返す者もいない。返名の儀は行われない。十一年、母の名は誰の帳にも載っていない。
名簿には載っている。渡り成れり、と書いてある。形の上では渡った。
誰も憶えていない。
母の渡しの夜、司祭は泣き足りぬと言った。
言われて、十一の娘は自分のせいだと思った。十一年、そう思ってきた。
足りなかったのは、娘の声ではない。
あの家には、泣く者がいなかった。雇う金がなかった。組合は割り振りを止めた。止めたところで誰も咎めない。金のない家に泣き女は来ない。それだけのことである。
それだけのことで、母の名は、どこにも預けられなかった。
リゼットは、自分の帳を引き寄せた。
一枚目を開いた。
白紙である。六年、白紙のままにしてきた。泣き女は最初に預かった名を一枚目に書く。誰に教わるでもなく、みながそうする。
十六の春、初めての渡しの夜に、彼女は一枚目を開いて、開いたまま何も書けなかった。書きたい名前が一つあって、それは預かった名ではなかったからだ。預かっていない名を書く資格が、彼女にはなかった。
だから二枚目から始めた。
六年、一枚目を空けたまま歩いてきた。
師は、十月にこの帳を送ってきた。四十年ぶんの、五百一年の頁ごと送ってきた。
あの人は知っていた。
十六の娘が組合の門を叩いた日から、知っていた。知っていて、六年、一度も言わなかった。言う代わりに、去年の秋、帳の一枚目が白紙だねと言った。それだけ言って、理由は訊かなかった。
扉が叩かれたのは、夜半だった。
「泣き女様」
ニナだった。後ろにセヴランがいる。
「あたし、明日、島に行きます」
「呼ばれておりません」
「侍女は荷を運びます。荷を運ぶ者を、招く名簿に書く決まりはないです」
娘は指を折った。数える癖である。
「それから、あたし、見たこと言えます。エルマさんの部屋を片づけたのはあたしです。荷物が全部残ってました。半期のお手紙を家令様が上着に入れたのも見ました」
「あなたの言葉は、家令様の言葉に勝てません」
「勝たなくていいです」
ニナは籠の把手を握った。
「数が一つ増えるだけでも、あたしはいいです」
セヴランが、その後ろから紙を差し出した。舟の手配の写しである。
「一艘、勝手に頼んどいた」
「若様」
「母さんが君を呼ばないなら、僕が呼ぶ。僕もラングヴァイだからね」
彼は肩をすくめようとして、やめた。この人の軽口は、最近うまくいかないことがある。
「それだけ。じゃ、また明日」
舟着場に下りたのは、深夜である。
霧が水面から立って、桟橋の先が見えない。杭に舫った舟が木を鳴らしている。空気が冷たくて、息が白かった。
黒い外套が、桟橋の付け根に立っていた。
リゼットは、そこまで歩いた。
「閣下」
「ああ」
言うことは、決めてある。声を張る必要はない。この人には、小さい声のほうがよく届く。
「明日、わたくしは掟を破ります」
オルデリクは、動かなかった。
「預かっていない名を、一つ呼びます」
器の掟である。泣き女は自分のためには泣かない。器に自分の水を入れてはならない。
母の名を呼べば、彼女は泣く。
泣けば、資格を失う。
彼は止めなかった。理由も訊かなかった。誰の名かとも訊かなかった。
彼が言ったのは、一言だけだった。
「──行け」
舟が出た。霧の中に、島の影がひとつ。




