第30話 返名
黙島の分祠には、泣き女の席がある。
石を敷いた床の、正面の一段低いところである。誰も座っていない。公示の紙の欄が空だったのと同じ理由で、この夜、そこに座る者は指名されていなかった。
リゼットは、そこへ歩いていった。
誰も止めなかった。
止める規定が、この儀にはない。分祠の中で立った者を追い出す条は、十七条のどこにも書かれていなかった。書く必要がなかったのだ。呼ばれていない泣き女が島へ渡ってきたことなど、一度もない。
彼女は膝をついた。
灯りが六本。石の壁が声を返す造りである。八月に舟着場でそう聞いて、そう憶えてきた。
参列は十四人。神殿から三人。家から四人。村から五人。それに、荷を運ぶ侍女がひとりと、招かれていない舟で来た者がひとり。
ドルーガが名簿を開いた。
マルグリットが、泣きはじめた。
三度上げて、一度下げて、また上げる。息を吸う長さが四つ。終わりの一声を落としきらない。
リゼットは帳を開いた。
「返名、始めます」
「ヨナス」
石が声を返した。灯りの焔が一度ずつ傾く。
応える声はない。
「渡り、成れり」
ドルーガが名簿に印をつけた。
「マティアス」
応える声はない。
「ライナル」
応える声はない。三年間ひとりで書き物をして、朝に出ていって、挨拶だけはきちんとしていた人である。九人が集まって、年寄りがひとり途中から一緒に泣いた。
「ゲルト」
応える声はない。麦の話を三日でも続ける人だった。
四つ。
次を読む前に、リゼットは一度、息を入れた。
「シビル・ラングヴァイ」
分祠が静かになった。
誰かが息を呑む音がした。マルグリットの泣き方は乱れない。三度上げて、一度下げる。
応える声は、なかった。
彼女は帳の行を、指で押さえた。
返したらどうなるの、と訊かれた。答えられなかった問いに答えたのは、向こうのほうだった。
「渡り、成れり」
ドルーガが印をつけた。
「ここから、繰り越しの名を返します」
リゼットは、師の帳を開いた。
「五百七年三月。ラングヴァイ家。リカルド」
石が、返した。
「はい」
分祠の後ろで、男が立った。
五十がらみで、日に灼けて、手が土の色をしている。麦を刈る手だった。名を呼ばれて立ち上がるまでに、少し時間がかかった。五年ぶりに自分の名で呼ばれた人の、間の取り方である。
「リカルドは、私です」
参列の列が動いた。村から来た五人のうち二人が、腰を浮かせた。
ドルーガの手が、名簿の上で止まった。
「五百十一年九月。ラングヴァイ家。エルマ」
「はい」
女の声だった。荷を運ぶ者の後ろから、痩せた四十絡みの女が進み出た。両手を前で組んでいる。
「エルマでございます。文書番を、十二年」
石の分祠に、声が二つ立った。
ドルーガは、名簿を閉じなかった。
閉じられなかった。
二人の名は、彼の字でそこに書いてある。日付も、事由も、認証の印も。二十六年、記載を一つも落としていない男の、正確な字である。
その正確さが、二人が生きていることの証しになった。
彼は誰にも問い詰められていない。リゼットは一言も彼のほうを見ていない。ただ、名簿の上で、彼自身の字が彼を裏切っていた。
「記載を、改めます」
それが、彼の言った全部だった。
マルグリットは、泣き続けていた。
三度上げて、一度下げて、また上げる。息を吸う長さが四つ。終わりの一声を落としきらない。
応える声が二つ上がっても、彼女の型は崩れなかった。
崩せないのだ。
六年、毎朝、鏡の前で三度ずつ練習してきた。悲しくないから練習してきた。悲しくないことを誰にも悟らせないために、正しい形だけを保ってきた。
いま、この分祠でいちばん正しく悲しんでいるのは、彼女である。
リゼットは、彼女のほうを見なかった。
告発する言葉を、彼女は持っていない。持っていても、使わない。泣き女は葬儀の場で泣き声以外の言葉を発してはならず、返名の場で口にしてよいのは名前だけである。
彼女は次の名を読んだ。
「ヨセフィーネ」
応える声は、なかった。
当たり前だった。あの人は本当に死んでいる。四十年、王都の稽古場で娘たちの声を聞き分けて、湯を飲んで、身寄りのないまま、立会いなしで渡された。
「渡り、成れり」
リゼットは、そこで初めて声を上げた。
短く、低く、一度だけ。仕事の型ではない。家に合わせて選んだ声でもない。ただ送るための声で、二呼吸で終わった。
分祠が、静まり返っていた。
「以上、八つ」
彼女は司祭のほうへ向き直った。
「応えのありましたのは、二つでございます」
申告である。これで儀は終わる。
ドルーガが万年筆を持ち上げた。
「──三つです」
後ろから、声がした。
黒い外套の女が、灯りの縁まで進み出ていた。頬が痩せて、目のふちに影がある。髪を後ろで束ねて布で包んでいる。八ヶ月、葦原の小屋から出なかった人だった。
「シビル・ラングヴァイは、わたしです」
誰かが椅子から立った。誰かが座り込んだ。マルグリットの泣き声だけが、同じ形で続いている。
女は、リゼットのほうを見た。
「返してもらう予定はなかったの」
声が、少し掠れている。喋り慣れていない人の出し方だった。
「でも、二人が立ったから」
それだけ言って、彼女は両手を前で組み直した。
リゼットは頭を下げた。
「訂正いたします。応えのありましたのは、三つでございます」
帳を閉じた。
預かった名は、全部返した。繰り越しも返した。八つのうち五つが渡り、三つが戻った。この一年の務めが、これで終わる。
彼女は、閉じた帳をもう一度開いた。
一枚目である。
白紙だった。六年、白紙のままにしてきた。預かっていない名を書く資格が、彼女にはなかった。
灯りが六本、石の壁で声を待っている。
「──アニェス・ヴァレンド」
応える声は、ない。
母は十一年前に死んでいる。誰にも預けられず、誰にも憶えられず、名簿の上でだけ渡ったことになっている。
喉の奥が、開いた。
六年、他人のためにしか出なかったものが、押しもしないのに上がってきた。彼女は口を押さえようとして、間に合わなかった。
声が出た。
みっともない泣き方だった。息継ぎがめちゃくちゃで、途中で咳になり、咳のまま続いた。肩が跳ねて、膝が石から浮いた。品がない、と言われる類の声である。
十一年ぶんだった。
誰かが、彼女の手に布を握らせた。
白い。目が詰んでいて、毛羽が立たない。上等な麻である。この一年、よく泣いた夜の翌朝に、部屋の前に置かれていたのと同じ織りだった。
顔を上げた。
オルデリクが、泣いていた。
六年ぶりだった。声は出していない。頬を伝うものだけが落ちていく。彼はそれを拭わないまま、口の中で名前を一つ呼んでいた。
アルヴィス、と聞こえた。
夜が明けた。
霧が湖の上から剥がれて、対岸の葦原が下から順に現れた。
リゼットは泣き女の資格を失った。器の掟を破った者は、その日から泣き女ではない。組合の名簿から名前が消えた。
追放は、されなかった。
王都から来た書記が、四十年ぶんの帳の継承者として一つの席を用意した。後進を育て、預かられた名を管理し、繰り越しを見る役である。長く空いていた席だった。
泣かない仕事である。
それでも、誰かの名前を憶える仕事だった。
消えた記載を誰が求めたのかは、これから神殿が調べる。王家の裁定は遅い。ただ、法の上で生き返った女がひとり、証言する資格を取り戻している。
舟着場で、四艘が客を降ろしていた。
リゼットは桟橋の端に立っていた。目のふちが腫れて、喉が焼けている。渡しの翌朝と同じ体だった。同じ体で、中身だけが違う。
足音が、隣で止まった。
オルデリクは、何も言わなかった。長いこと、湖のほうを見ていた。
それから、こちらを向いた。
「名前を、呼んでいいか」
最後までお読みくださり、ありがとうございました。これで完結です。
同じ世界の短編を二つ、別の作品として投稿しています。どちらも単話で完結します。
『泣かなかった夜』── 公爵がまだ何も語らなかった、あの葬儀の前夜の話
『泣きすぎた夜』── 自分の泣き方が数えられていたと、事が済んでから知る人の話(このあと12時公開)
お好きな順にどうぞ。




