第28話 十日後
公示は、分祠の扉に貼り出されていた。
四月の末である。雪解けの水が丘を下って、道の両側で細い流れになっている。分祠の前庭の土は柔らかく、履き物の裏に貼りついた。
紙は一枚。神殿の透かしが入っている。
返名の儀 五月十日 日没 黙島分祠
舟 四艘
立会 渡し司祭ドルーガ
立会 泣き女
最後の欄が、空いていた。
「うわ」
隣で、セヴランが声を出した。
「ここ、空けたまま貼るんだ」
「審査中でございますので、指名ができません」
「じゃあ、当日までに埋まらなかったら」
「泣き女が立たなければ、儀は成りません」
リゼットは紙の端を見た。糊の乾き方から、貼られたのは昨日か一昨日である。十日ぶん、この空欄が扉にある。
「預かられた名は、その年は返りません。翌年へ持ち越しになります」
「持ち越すと」
「もう一年、死者のままでございます」
セヴランは空欄を指差した。
「これ、埋められるのは母さんだけだよ」
風が紙の下端をめくって、また戻した。
空欄は、扉に十日ある。
通る者はみな見る。村の者も、神殿の者も、家の者も。誰も埋めないまま日が過ぎれば、埋まらないのが当たり前になる。
置いておけば太る、というのは噂だけの話ではない。
「僕、母さんに言ってみようか」
セヴランが前庭の石に腰を下ろした。
「おやめくださいませ」
「なんで」
「あなた様が動かれれば、奥様は理由をお知りになります。理由をお知りになれば、埋まる欄も埋まりません」
彼は膝の上で指を組んで、ほどいた。
「じゃあ、僕は何をすればいい」
「今は、何も」
分祠の中は、暗かった。
石造りで、窓が高い。前庭から入ると、目が慣れるまで足元が見えない。リゼットは扉の内側で立ち止まり、そこで声を聞いた。
記録室の扉が、半分開いている。
「三名のうち一名は」
平たい声だった。
「閣下が記載をお求めになったものでございます」
彼女は動かなかった。
黙の掟は、葬儀の場でのみ有効である。ここは儀の場ではない。分祠の廊下で人の話が聞こえたとき、耳を塞ぐ決まりは、どの掟にも書かれていない。
「何を仰いますの」
マルグリットの声である。
「五百十二年の四月一日でございます。記載をお求めになったのは閣下、認証いたしましたのは私。手続きは正当でございます。ただ、事由の欄は空でございます」
「あなた、それを」
「証しにはなりません。ですが、申し上げることはできます」
紙を繰る音がした。
「奥様。お考えいただきたいのは、順序でございます。泣き女が騒げば、まず疑われますのは記載した者でございます。二十六年、記載を一つも落としていない者が、五百七年と五百十一年の二件について問われる。私は答えねばなりません」
「答えなければよろしいでしょう」
「答えずに済ませる方法が一つございます。三件目を出すことでございます」
「……」
「三件のうち一件は、公爵閣下がお求めになったものでございます、と。そう申し上げれば、話は二件から三件になります。三件のうち一件に公爵家の当主が関わっておりますなら、これは家の問題でございます。神殿の問題ではなくなります」
リゼットは、扉の内側で息を止めていた。
同じ抜け穴である。
二人を消したのも、一人を逃がしたのも、同じ紙と、同じ司祭と、同じ手続きだった。並べて書けば、区別がつかない。
書くのは、書いたほうである。
「お家のためですのよ」
マルグリットの声が、低くなった。
「わたくしがしてきたことは、全部」
「存じております」
「あなたのしてきたことは」
「数を合わせることでございます」
沈黙があった。
「それだけでございます、奥様」
紙を揃える音がした。
「もう一つ、申し上げます」
「まだ何か」
「泣き女の欄でございます。十日のあいだ、空でございます」
「埋めるつもりはございませんわ」
「埋めずにお済ませになりますと、儀が成りません。儀が成らねば、預かられた名は翌年へ持ち越されます」
「それで結構ですわ」
「私は、結構ではございません」
声に、初めて角が立った。
「四十八冊の名簿に、返らなかった名が残ります。返らなかった名は、翌年の冊へ繰り越して書き足さねばなりません。繰り越しの記載は、二十六年で一度も出したことがございません」
「まあ」
マルグリットの声が、少しだけ高くなった。
「あなた、そちらのほうが大事ですのね」
「大事という言い方は、私にはよく分かりません」
八年、この二人は同じ側に立ってきた。同じ側に立っていたのであって、同じものを見ていたのではない。片方は家を見ていて、片方は紙を見ていた。
家が傾いても紙は残る。紙が焼けても家は残る。
どちらかを選ぶ日が来れば、二人は別々のほうへ歩く。
リゼットは分祠を出た。
屋敷に戻ったのは、日が落ちてからだった。
書斎に通された。暖炉の火はもう入っていない。四月の末で、この土地でもようやく薪を止めたところである。
彼女は、聞いたことをそのまま伝えた。
順序も、言葉も、変えなかった。付け足しも引き算もしない。六年、他人の言ったことをそのまま帳に書き写してきた手つきで、そのまま渡した。
オルデリクは、否定しなかった。
「そのとおりだ」
彼は机の縁に手を置いた。
「私も、同じ抜け穴を使った」
「はい」
「叔母上が使ったのと、同じものだ。使い道が違うだけで、やったことは同じだ。並べて書かれれば、区別はつかない」
「はい」
言い訳をしない人である。この一年で、彼女はそれを何度も見てきた。
だからこそ、訊かねばならなかった。
「閣下」
「なんだ」
「返名の儀で、あの方のお名前をお返しすれば、応える声が上がります」
「ああ」
「渡しは無効になり、四月一日の記載が消えます。消えれば、記載をお求めになった方が誰かを、神殿は調べます」
「そうだ」
「では、あなた様も裁かれます」
書斎が静かになった。
窓の外で、雪解けの水の音がしていた。丘を下る細い流れが、石を叩いている。この音は、二月まで無かった音である。
「それでも、わたくしに返せと仰いますか」
オルデリクは、答えなかった。
長い沈黙だった。この人の沈黙には種類がある。答えを探しているとき、答えたくないとき、答えが一つしかないとき。
今夜のは、三つ目ではなかった。
答えが二つあって、片方を捨てなければならない人の黙り方だった。捨てるほうには、自分の家と、爵位と、領地と、これから先の全部が入っている。
窓の外の水が、石を叩き続けていた。
この一年、彼女はずっと、悪いほうと良いほうを分けようとしてきた。
分けられなかった。
二人を消した紙と、一人を逃がした紙は、同じ棚の同じ冊に、同じ字で並んでいる。返せば、全部が同時に開く。悪いほうだけを開ける鍵はない。
彼女にできるのは、預かった名を返すことだけである。返すか返さないかしかなく、選んで返すという道は、掟のどこにも書かれていない。
彼は机の縁から手を離した。
「返してくれ」
一周忌は、十日後でございます。




