第26話 白布の下
三月に入って、中庭の霜が朝だけのものになった。
井戸の縁に薄く張って、日が回ると消える。石畳の隙間から、緑がかった芽が二つ三つ出ていた。庭師のいない庭である。去年の春に植えた者がもういないのに、球根のほうは律儀に出てくる。
セヴランは、井戸の縁に腰かけていた。
手に、白い布を持っている。
「洗い場から借りてきた」
悪びれない。彼はいつもそうだった。
「返すよ。ちょっと、試してみたかっただけ」
「試す、と申されますと」
彼は布を広げて、顔に当てた。目のところにかぶせて、少し伸ばして、鼻と口まで覆う。
「息が、しにくいな」
「慣れます」
「これで一晩?」
「一晩でございます」
彼は布を外して、膝の上に置いた。
しばらく、井戸のほうを見ていた。この人の軽口には、いつも間がない。次から次に言葉が出てくる。出てこないのは、六月の夜に柱の陰で泣いていたときだけだった。
「君」
「はい」
「これをつけて泣いてるとき、こっちが見えてるの」
リゼットは布を受け取ろうと伸ばした手を、そのまま止めた。
嘘をつく理由はなかった。
「見えております」
「……どのくらい」
「泣き女の席は、棺の正面でございます。遺族に背を向けず、参列の方々を正面から見渡せる位置に座ります。布は薄うございますから、こちらからは見えます。あちらからは、見えません」
「全員?」
「全員でございます」
中庭の風が、井戸の縄を鳴らした。
セヴランの顔から、笑いが引いた。
引いていく過程が、はっきり見えた。目の端の皺が伸び、口の形が戻り、頬のあたりが動かなくなる。この人がこういう顔をしているのを、彼女は一度も見たことがない。
「六年」
彼は言った。
「僕、六年、この家の葬式で泣いてる」
「はい」
「誰も何も言わなかった。叔母上には直せって言われるけど、あれは作法の話だ。誰も、見てるとは言わなかった」
「泣き女は、口をきけませんので」
「そうじゃなくて」
彼は膝の上の布を握った。
「見られてたんだ、って話」
六年である。
この人は毎回、隅にいた。親族席の椅子を一つ空けて、柱の陰や壁際で泣いた。人前で泣く男が屋敷でどう扱われるかを知っていて、それでも泣いた。知られないところで泣けば、誰にも数えられない。
誰にも数えられなければ、なかったことになる。
白布の下から、それを毎回見ていた人間が一人だけいた。
厩へ移ったのは、日が傾いてからだった。
中庭は人が通る。厩は馬が二頭いるだけで、藁と、汗と、油の匂いがする。馬丁は夕の飼葉を置いて出ていった。
セヴランは飼葉桶の縁に座った。
「訊いていい?」
「どうぞ」
「君、僕のこと、何て思ってた」
「屋敷でいちばん、正しく泣いておられる方だと」
彼は顔を上げた。
「……冗談だろ」
「六月の中庭でも、泣いておいででした。文書係の方のお渡しから八日経っておりました。喪主でも、ご遺族でもない方が、八日後に泣かれる。あれは、正しい泣き方でございます」
馬が一頭、藁を踏み替えた。
セヴランは長いこと黙っていた。それから、笑った。うまく笑えなかった。
「あのさ。僕が泣くのは、そんな立派な理由じゃないよ」
「伺ってもよろしゅうございますか」
「乳母に聞いたんだ。八つのころに」
彼は飼葉桶の縁を、指で二度叩いた。
「誰かが泣かないと、その人は渡れない。泣き声が足りないと、こっち側に残っちゃうって。それを聞いた日から、僕、誰の葬式でも泣くようになった」
リゼットは、動かなかった。
「馬鹿だろ。子どもの話だよ。この家の誰も、本気でそんなこと思ってない。叔母上だって、渡しは作法だと思ってる。神殿の司祭様だって、たぶん紙のことしか考えてない」
「思っておられる方は、おりました」
「え」
「王都に、四十年やった方が。あの方も、そう思っておられました」
「その人、今も王都?」
「十月に、渡られました」
セヴランは口を開けて、閉じた。
厩の外で、風が戸を鳴らした。
「僕さ」
声が、少し低くなった。
「六年、知らないふりをしてきたんだ」
「はい」
「母さんが何かをした。人が何人かいなくなった。誰も葬式に出なかった。──分かってた。分かってて、数えなかった。数えたら、知ってることになるから」
彼は膝に肘をついて、両手で顔を覆った。覆ったまま、続けた。
「俺、ずっと、知らないままでいたかったんだ」
僕が、俺になった。
リゼットは何も言わなかった。慰めなかった。この人がいま話しているのは、慰められるための話ではない。
彼女が六年やってきて分かったことが、一つだけある。
人は、泣きたい話をするときに、いちばん要らない言葉が「大丈夫ですよ」である。
厩の梁の上で、鳥が羽を畳む音がした。
馬の息が白い。三月に入っても、この土地の夕は冬のままだった。彼女は藁の上に膝を折って、飼葉桶の前の男が落ち着くのを待った。待つのは慣れている。六年、待つことでできている仕事をしてきた。
厩の隅の燭台に火を入れたのは、ニナだった。
「あの、若様。夕餉の刻限が」
「行くよ。すぐ行く」
セヴランは顔を上げて、袖で目のあたりを拭った。拭ってから、上着の内側から折り畳んだ紙を出した。
「これ、写しだけど」
「なんでございましょう」
「返名の儀の、招く人の名簿。誰を島に上げるかは、家の作法を握ってる人が決める。うちだと母さんだ」
リゼットは紙を開いた。
神殿から三人。家から四人。村から数人。名前が並んでいる。当主。叔母。従弟。家令。
泣き女の欄が、空いていた。
空欄というのは、書き忘れではない。書かないと決めた者がいるということである。
この十ヶ月で、彼女はそういう空欄を三つ見た。師の帳に二つ、この紙に一つ。
「母さんは、君を呼ばないつもりだよ」
厩が静かになった。馬が藁を鳴らす音だけがした。
「呼ばれないと、どうなるの」
訊いたのは、ニナのほうだった。
燭台を持ったまま、戸口に立っている。
リゼットは紙をたたんだ。たたんで、二冊の帳のあいだに挟んだ。
「返せません」
「え」
「預かった名は、預かった者にしか返せません。わたくしが立てなければ、五つの名は今年返りません。翌年へ持ち越しになります」
「来年、返せばいいんじゃ」
「来年も呼ばれない場合、その次の年へ持ち越されます」
娘が息を呑んだ。
「ニナさん」
名前を呼んだ。
この屋敷に来て十ヶ月、初めてだった。娘が燭台を落としかけて、慌てて持ち直した。
「あなたが数えた三人は、正しゅうございました。わたくしより、あなたのほうが先に気づいておられました」
「そんな」
「憶えていてくださいませ。それだけで、十分でございます」
「母さんは、君を呼ばないつもりだよ」
返名の儀に立てない泣き女は、預かった名を、永久に返せません。




