第25話 三人
二月の夜は、蝋燭が長く保つ。
寒いと蝋が固く燃えるのだと、組合の誰かが言っていた。本当かどうかは知らない。ただ、この冬になってから、彼女は一本で夜明け近くまで持たせている。
寝台の上に、四つ並べた。
自分の帳。師の帳。神殿の死者名簿の写し。組合の割り振り記録。
六月の末に、二つを突き合わせて三つ合わないと分かった。あれから七月半、増えたのは二つである。ひとつは師の帳、もうひとつは屋敷の下働きの娘が数えていた人の数だった。
四つを、一つずつ照らした。
五百七年三月。師の帳に、鉛筆で一行。呼ばれず、ラングヴァイ。同じ月の神殿の名簿に、記載が一つ。侍従長。組合の割り振りには、何もない。
五百十一年九月。師の帳に、同じ形の一行。名簿に記載。文書番。割り振りは、なし。
娘が言った名前を、彼女は当てはめた。
侍従長のリカルド。文書番のエルマ。
ここまでで、二つ。
三つ目は、彼女の帳の中にある。五百十二年五月十日、自分の字で書いた行。神殿の記載は四月一日。四十日ぶん、順序が逆になっている。
三つ。
三つ目だけが、ほかの二つと違っている。
侍従長も文書番も、彼女の帳の外にいる。預かっていない名は、返す資格がない。
三つ目は、帳の中にある。五月十日に預かって、五月十日に返す名である。
返せば、あの人は生き返る。生き返れば、二度目が来る。
返さなければ、あの人は死んだままで、その代わりに安全である。
返さないという道は、掟の上に存在しない。
彼女は蝋燭を近づけて、もう一度、自分の帳の頁を繰った。
五月二十一日、ヨナス。六月八日、マティアス。七月二十三日、ライナル。十一月十三日、ゲルト。
この四つには、何も欠けていない。渡しがあり、泣き女が立ち、その翌日に記載がある。渡しの日と、割り振りの日と、記載の日が、どれも順序どおりに並んでいる。
ライナルの行を、彼女は長く見た。
夏の礼拝堂で、担ぎ手の膝が速く伸びたのを見た。歩幅が縮まず、石段のつま先が段を探らなかった。あのとき彼女は、あれを二度目だと思った。
二度目ではなかった。
あの棺には、人が入っていた。三年間ひとりで書き物をして、朝に出ていって、挨拶だけはきちんとしていた人が入っていた。九人が集まって、年寄りがひとり途中から一緒に泣いた。
軽かったのは、あの人が小柄だったからである。おそらくは。
彼女に分かるのは、軽いか重いかだけだ。
六年やってきた目が、一度だけ、余計なものを見た。
紙の上では、それは何の役にも立たない。
二月の末に、ニナと二人で領内を回った。
言い訳は用意しなくてよかった。泣き女は、どの家にも入れる。
弔いの済んだ家を訪ねて、その後のご様子を伺うというのは、この職の建前としてありうることになっている。実際にやる泣き女はほとんどいない。だが、やっても咎められない。身分の外側にいる者が、身分のある家の台所に座って茶を出されるのは、この国ではこの職だけである。
「あの、泣き女様。あたし、うまく訊けるでしょうか」
「訊かなくてよろしいのです」
「え」
「あなたは、憶えていればよろしゅうございます」
三軒目の家で、老いた女中が茶の葉を出してきた。屋敷を辞めて村に戻った人である。
「侍従長様ね。リカルド様」
女は湯を注ぎながら言った。
「あの方は、お体を悪くなさって、お辞めになったの。五年前の春よ。急なことでね、朝におられたのに、次の日にはもう」
「亡くなられたと」
「まさか」
女は笑った。
「病でお辞めになっただけよ。療養なさるって、南のご実家のほうへ。あの方、お若いころから胃が弱くてね」
「お亡くなりになったとは、どなたからも」
「聞いてないわ。聞いてたら、あたしお参りに行ってるもの」
ニナが、袖の中で指を折った。
五軒目でも、七軒目でも、同じ形の話が出た。
文書番のエルマは、二年前の秋に「実家へ帰った」ことになっている。荷物を残したまま帰った理由を、誰も知らない。ただ、死んだとは誰も言わなかった。
二人とも、この領のどの家でも、生きていることになっている。
神殿の名簿の上だけで、死んでいる。
六軒目の家では、戸を開けてもらえなかった。
「うちは、あの家のことは何も」
戸の内側から、そう言われた。ニナが名乗る前である。泣き女が立っているというだけで、そうなる家がある。
ニナはしばらくその戸を見ていた。
「あの人、去年まで屋敷に出入りしてた人です」
「そうですか」
「三人だけじゃないのかもしれません」
娘の声が、途中で細くなった。
「いなくなってない人でも、怖い人はいるんだと思います」
「泣き女様」
帰りの道で、ニナが言った。
「あたしが数えた三人と、同じ人ですか」
「同じでございます」
「じゃあ、あたし、合ってたんですね」
娘は少しだけ笑って、それから、笑うようなことではないと思ったのか、口を結んだ。
領境の宿場まで足を伸ばしたのは、三月に入る前だった。
街道の分かれ目にある、荷馬車の休む宿である。冬でも人が動く。人が動くところには、人の話が溜まる。
宿の主人は、六十がらみの男だった。
「リカルドさん」
彼は帳場の下から古い綴りを出して、指を舐めて捲った。
「うちに泊まったことがある人だね。ええと、五年前の春。南へ行く馬車を待っておられたな」
「南へ」
「いや、途中で変えなさった。南は実家だから、追ってくる者がいるって。それで、東の隣領のほうへ」
「どちらへ」
「フェルデンの農場だよ。麦の刈り入れに人を入れるところでね。うちからも毎年何人か行く」
「今も、いらっしゃいますか」
「去年の秋に、うちの村の若いのが会ってる。元気だったと」
主人は綴りを閉じた。
「ただ、名前は別のを名乗っておられるそうだ。ハルド、だったかな」
名を変えなければ、雇われない。
法の上で死んでいる者は、証文に名を書けない。畑を借りることも、賃金を受け取ることも、宿帳に名を残すこともできない。生きていくには、別の名前を借りるしかない。
五年である。
五年、あの人は他人の名前で麦を刈っている。
会いに行けば、この人の身が危うくなる。片道で三日はかかる。三日空ければ、屋敷が動く。返名の儀までは二ヶ月と少ししかない。
リゼットがしたのは、一行、書き足すことだけだった。
帳の余白に、細い字で。
リカルド、生存の噂あり。フェルデン農場。
この一行は、証拠にならない。
噂だと書いてある。書いたのは泣き女で、泣き女の帳は誰にも見せられない。見せられない紙に書かれた噂は、この世界のどこにも届かない。
届く場所が、一つだけある。
五月十日の夜、黙島の分祠。読み上げた名に応える声があってはならない、と決まっている場所である。
あと二ヶ月と少し。
書いてから、彼女は帳を閉じた。
声には出さない。出せば、預かった名のほうが揺れる。
紙の上でだけ、三つが並んだ。
三人。
侍従長リカルド。文書番エルマ。そして、シビル・ラングヴァイ。
三人とも、生きている。




