第24話 規定どおり
小広間に呼ばれたのは、朝の遅い時刻だった。
一月の下旬である。窓の内側に霜の花が張りついていて、外が見えない。暖炉には火が入っているが、石の広さに対して火が小さい。
扉を開けると、三人が座っていた。
中央にマルグリット。その左に、黒い長衣。右に、見たことのない中年の男が一人、膝の上に帳面を置いて座っている。
三人が座っていて、椅子はそれ以上出ていない。
職能民を一人呼んで、掛ける者が三人いる。この形を、リゼットは知っている。屋敷の作法として叱るときには、聞かせるための人間を残す。三人残すのは、叱るためではない。
「泣き女組合の、書記でございます」
右の男が名乗った。王都の帳場で報告を書き取った男とは別人だった。
「返名の儀の、事前の確かめに参りました」
「遠いところを、恐れ入ります」
「六日でございます」
男の言い方は事務的で、悪意はなかった。ただ、六日かけて呼ばれてきたということは、六日前に誰かが呼んだということである。
叱るのは主人の仕事で、記録を残すのは組合の仕事である。両方が同じ部屋にいる。
この一年で、この屋敷の広間に呼ばれたのは三度目だった。一度目は襟布の幅、二度目は泣き方の講評。どちらも作法の話である。作法の話に、神殿と組合は出てこない。
リゼットは立ったまま、二冊の帳を胸に抱えていた。
「本年、五月十日の返名の儀につきまして」
ドルーガが口を開いた。平たい声である。
「立会いの泣き女は、あなた様お一人でございますな」
「はい」
「お預かりは、五名」
「はい」
「では、確かめのため、預かり帳をお出しください」
広間が静かになった。書記の帳面に、字を書く音がした。
「規定でございましょうか」
「規定でございます」
ドルーガは組んだ手を膝の上に置いたまま動かさない。
「返名の儀は神殿の儀でございます。儀の前に、渡し司祭が死者名簿との照合を求めることは、規定に定められております。数が合わぬまま儀を行えば、返らぬ名が出ますので」
嘘ではなかった。
組合に入った年に、規定の書付を写させられた。返名の儀に関わる条は十七ある。そのうちの一つに、司祭は照合を求めることができる、と書いてある。求めることができる、とだけ書いてある。
この八年、そんな求めを受けた泣き女の話を、彼女は聞いたことがない。
「書記様」
彼女は右の男のほうを向いた。
「規定に、ございますか」
「ございます」
男は帳面から目を上げなかった。
「ただし、応じる義務については、条に書かれておりません」
中立だった。この人は記録を取りに来ただけで、どちらの味方でもない。
「お出しできません」
リゼットは言った。
「帳は、返名の日まで、誰にもお見せできません。掟でございます」
「規定と掟では、規定が上でございます」
「掟を破りました泣き女は、その日から泣き女ではございません。泣き女でない者が返名の儀に立つことはできません。お出しした瞬間に、五名の名は返らなくなります」
ドルーガは反論しなかった。
黙って、彼女を見た。細い目である。二十六年、記載漏れをしたことがない男の目だった。
「三名」
彼が言った。
「あなた様が気づかれたのは、三名でございましょう」
胸の中の帳が、重くなった気がした。
「三名で合っておりました、と私は申し上げました。合っているものを、私は数え直しました。六月の八日でございます」
覚えている。
板の間ではなく、小教区の礼拝堂の脇の小部屋だった。二冊の帳面が机の上に並んでいて、彼は万年筆を置き、名簿を前へ二枚戻し、指の腹で行をなぞって、こちらへ戻した。息にして四つか五つ。
合っているものを、なぜ数え直すのか。
あの夜から七月ものあいだ、彼女はそれを考えてきた。数え直す必要など、どこにもなかったはずだと。
必要があったのだ。
聞かせる必要が。
「わたくしに、憶えさせるためでいらしたのですか」
「憶えていただかねば、確かめに行かれませんので」
「……なぜ」
「確かめに行かれる方は、必ず記録をお持ちになります」
リゼットは、胸の帳を抱え直した。
九月の朝、枕の下の帳が指二本ぶん出ていた。開かれてはいなかった。開けば咎められるのは触った側だから、開かずに動かした。あのとき彼女は、取り上げられたらどうするかを考えなかった。考えて答えの出る問いではないと思った。
答えは、目の前にある。
取り上げられるのではない。差し出させるのだ。
規定を作った人間は、悪意で作ってはいない。返らない名が出ないように、照合の道を一本残しただけである。掟を作った人間も同じで、名を憶えている者を守るために、帳を閉じさせただけだった。
どちらも正しい。二つ並べると、人が一人潰れる。
この一年、彼女が見てきたのは、そういうものばかりだった。
「お出しできません」
もう一度、同じ言葉を言った。
声は震えなかった。震えていたのは指のほうで、それは帳の背に押しつけて隠した。
ドルーガは、それ以上求めなかった。
「泣き女が掟をお守りになるのは、結構なことですわ」
マルグリットが、初めて口を開いた。
「書記様。ついでに、この娘の所見を申し上げてもよろしくて」
書記の手が止まった。
「所見、と申されますと」
「泣き方でございます。わたくしはこの家の内向きを預かっておりますから、雇い入れた者の働きぶりを申し上げる立場にございます」
彼女は膝の上で指を組み直した。
「五月の広間はよろしゅうございました。ですが、庭師の家では声が高うございましたわ。品がない、と申し上げましたけれど、直っておりません。七月の小教区では、九人しかおりませんのに、いちばん強い型をお使いになりました。あれは喉を潰す型でございましょう。潰せば、返名の儀で声が出ませんわね」
書記が書き取っている。
「それから、屋敷での振る舞いについても、少々」
「奥様」
「なんですの」
「その所見は、記録に残りますでしょうか」
「残していただかねば、申し上げる意味がございません」
優美な声だった。声を荒らげたことは一度もない。
リゼットは頭を下げた。反論はしなかった。
全部、本当のことである。
庭師の家で声を高くしたのは、遺族の泣き方に合わせたからだ。九人しかいない礼拝堂でいちばん強い型を使ったのは、九人では足りなかったからだ。喉を潰しかけたのも本当で、二月経っても抜けていないと師に言い当てられた。
理由を言えば、理由も記録に残る。記録に残った理由は、あとで別の形に読み替えられる。六年で、それも見てきた。
ドルーガが立ち上がった。
長衣の裾が石を擦る音がして、彼は扉のほうへ二歩進み、そこで振り返った。
「本日は、ご苦労さまでございました」
「恐れ入ります」
「では、規定どおりに進めましょう」
何の規定かは、仰いませんでした。




