第23話 【sideドルーガ】数える者
正月の四日に、ドルーガは名簿を数える。
分祠の記録室は北向きで、冬は息が白い。手袋はしない。革の指では紙の端が捲れないからである。彼は棚の左端から順に、背表紙の年号を読み上げながら数えていく。
四十六。四十七。四十八。
四十八冊ある。一年に一冊。この分祠が置かれた年から、一冊も欠けていない。
そのうち二十六冊が、彼の字で埋まっている。
二十六年、彼は記載漏れをしたことがない。日付の書き損じもない。人が死んで、彼が書き、その者は死者になる。書かなければ、その者はまだ死んでいない。
世界が正しく数えられているというのは、こういうことである。
ドルーガはこの仕事を、秩序と呼んでいる。
誰かが死者を決めねばならない。決めなければ、財産は誰のものか分からず、婚姻は続いているのかいないのか分からず、畑を耕す権利が誰にあるのかも分からない。人が生きているか死んでいるかを、村ごとの言い伝えや、遺族の申告や、噂に任せておくわけにいかない。
だから紙がある。
紙に書かれたことが、この世界の骨である。
骨が正しく並んでいれば、肉のほうは多少どうであっても構わない。書かれた名の主が、実際に土の下にいるかどうかは、彼にとって二次の問題である。二次のことで一次の骨を曲げるほうが、よほど世界に害がある。
四十八冊目の背を戻して、彼は指の埃を払った。
十九年前に一度だけ、記載の遅れを出したことがある。冬の峠が閉じて、報せが二十日遅れた。名簿の余白に鉛筆で理由を書き添えて、本山へ届けた。
誰も咎めなかった。
咎められなかったことが、いまだに気に入らない。
棚の上から三段目の左に、五百七年の冊がある。その右に五百十一年。ここ数年でいちばん多く手に取っている二冊だった。
どちらも、彼の字で埋まっている。
どちらの記載にも、誤りはない。
昼に、灰色の襟布が来た。
「お寒うございますこと」
「北向きでございますので」
マルグリット・ラングヴァイは記録室に入ると、まず窓を見る。窓の格子の外に何もないことを確かめてから、扉のほうへ背を向けて立つ。八年、毎回同じである。
「寄進の件、神殿本山へ書状を出しました」
「恐れ入ります」
「あなたのお名前も添えてございます。分祠の司祭が二十六年、記載を一つも落としていないと。本山はそういうことを重んじますでしょう」
「重んじます」
金銭の受け渡しは、二人のあいだで一度も起きていない。彼女が動かすのは寄進と口利きであり、彼が動かすのは記載である。物が移らないから、跡が残らない。
「それで」
彼女は襟布の折り目を指で撫でた。
「泣き女のことですけれど」
「はい」
「あの娘、湖の向こうへ参りましたのよ。十二月に。半日かけて、歩いて」
「左様でございますか」
「驚かないのね」
「あの娘は、数が合わないことに気づいております」
窓の外で、氷の落ちる音がした。
マルグリットが、初めてこちらを向いた。
「いつから」
「六月でございます」
「六月」
「はい。二度目の記載の折に、私が数え直しましたので」
彼は帳面の位置を、机の縁と平行に直した。
「本年、この家でお預かりになったのは三名でございますな、と申し上げました。そのあと、名簿を二枚戻して、数え直しましたと申し上げました」
「……なぜ、そのようなことを」
「合っていたからでございます」
彼女は黙った。
「三名で合っておりました。合っているものを数え直す者はおりません。あの娘は泣き女でございます。名と数を扱う職でございますから、合っているものが二度数えられたら、必ず憶えます」
「聞かせたのですね」
「はい」
マルグリットの声が、一段低くなった。この人は声を荒らげない。低くなるだけである。
「わたくしに、一言もなく」
「申し上げるほどのことではございません。手順でございます」
「司祭様」
「はい」
「あなた、あの娘を憐れんでおいでですの」
「憐れむという言い方は、私にはよく分かりません」
「そう」
「数が合えば、それでよいのでございます」
マルグリットは襟布の幅をもう一度確かめて、扉のほうへ向かった。出ていくときに一度だけ、棚の三段目を見た。
あの人は家のために人を退ける。こちらは、世界が正しく数えられるために紙を整える。
動機は違う。八年、それで揃ってきた。揃っているうちは、どちらも困らない。
彼女が帰ったあと、ドルーガは机に戻った。
手順である、というのは嘘ではなかった。
帳を持つ者は、いずれ帳を突き合わせる。これは性質の問題であり、止めようがない。数を扱う人間に数の齟齬を隠し通すことは、二十六年やってきて一度もできた験しがない。
隠せないものは、こちらの都合のよい時期に、こちらの都合のよい形で気づかせるほうがよい。
気づいた者は、必ず確かめに行く。
確かめるには、記録が要る。泣き女が持っている記録は、預かり帳ただ一つである。
そして預かり帳には、実によくできた掟がついている。
他人に見せてはならない。見せた時点で資格を失う。
この掟の妙味は、外から検証できないところにある。見せたのか、奪われたのか、置き忘れたのか、落としたのか。帳が泣き女以外の手に渡ったという事実だけが残り、経緯は誰にも証明できない。
証明できないものは、書いたほうが勝つ。
彼は引き出しから紙を一枚出した。
神殿の透かしが入った、申立書の用紙である。宛先の欄に、字を入れた。
泣き女組合 御中
あとは白紙のままにした。
日付も、事由も、まだ書かない。書く日が来たときに書けばよい。事由の欄に何と書くかは、もう決めてある。掟破りの申立ては、神殿からのものであれば組合は必ず受ける。受けた組合は、その泣き女の名を名簿から外す。
名簿から外れた泣き女は、返名の儀に立てない。
立てなければ、預かられた名はその年、返らない。翌年へ持ち越される。
持ち越された名は、また一年、死者のままである。
ドルーガは紙を伏せて、引き出しに戻した。
悪意で書くのではない。彼は誰も憎んでいないし、誰かの不幸を望んだこともない。あの娘のことも、よく働く職人だと思っている。九人しかいない礼拝堂であの声を出す者は、そう多くない。
もう一つ、都合のよいことがある。
あの娘は一年契約の途中である。契約の途中で名簿から外れた泣き女は、組合へ戻れない。戻る場所のない者は、消えても騒がれない。
王都で四十年やった老女が、そうだった。身寄りがなかった。あの一件で、彼は書面を一枚も書いていない。書いたのは王都の同輩である。
ただ、四十八冊の背骨が曲がるわけにはいかない。
曲げようとする者が現れたら、その者のほうを直す。二十六年、そうしてきた。
「私は数えているだけです」
引き出しの中に、白紙の申立書が一枚。宛先は、泣き女組合。




