第22話 泣き方
書斎の扉を閉めるより先に、彼が言った。
「会ったのか」
リゼットは扉の把手を持ったまま止まった。
答えなかった。答えれば、あの小屋に人がいることを認めることになる。認めた話は、いつか誰かに伝わる。この屋敷では、下から上へ話が流れる。
オルデリクは机の向こうから出てきて、椅子を一つ引いた。
「掛けてくれ」
一年前と、同じ言葉だった。
あのときは断った。職能民は貴族の卓につかない。座れと言われて座る泣き女がいたら、次の日から仕事がなくなる。
彼女は帳を膝に抱えて、椅子に座った。
座ってから、この一年で初めて、この人と目の高さが同じになったことに気づいた。
オルデリクは自分の椅子には戻らず、机の縁に浅く腰を預けた。暖炉には火が入っている。この冬になって、この屋敷でもようやく薪を焚くようになった。松脂の匂いがした。
「話す」
彼は言った。
言ってから、しばらく何も続かなかった。
言葉を選んでいるのではない。選び方を知らない人の黙り方だった。この人は一年半、誰にも何も説明していない。説明しないことで人を守ってきた男が、説明する順序を持っているはずがなかった。
「どこから話せばいいのか」
「どこからでも」
「そうか」
「妻は」
最初の一語で、彼は詰まった。
「──シ、」
名前も出せない。喪が明けていない。
「あれは、兄の婚約者だった」
リゼットは膝の上の帳を握った。
「兄が死んで、あの人は行き場を失った。婚約者は身内ではない。家に留める理由がなくなる。だから、形だけの婚姻を結んだ」
「形だけ、と申されますと」
「私たちのあいだに、そういうものはない」
彼は暖炉のほうを見ていた。火の色が、目の下の影を浅くしている。
「一年半前、あの人が数を数えはじめた。屋敷から人が消えていることに気づいた。私が気づかせたわけではない。あの人が自分で気づいた」
「毒を、盛られたと伺いました」
「三口飲んだ」
声が低くなった。
「助かったのは運だ。次があると分かった。この屋敷で二度目が来なかった例を、私は知らない」
薪が一本、崩れる音がした。
「私は司祭に記載を頼んだ」
リゼットは顔を上げた。
「司祭の記載だけで、法の上の死は成立する。棺の中を検める者はいない。死に触れるのは穢れで、司祭の言葉を疑うのは涜神だからだ」
「では」
「あの夜、棺は空だった」
膝の上の帳の背が、指に食い込んだ。
一年前の五月十日。三十七人が広間にいて、白い花が北の国から届いていて、彼女は日没から夜明けまで泣いた。喉に鉄の味がした。担ぎ手の膝が速く伸び、歩幅が縮まなかった。
空の棺のために、六年でいちばん長い夜を働いた。
怒りが来るのだと思った。
来なかった。来たのは、もっと平たいものだった。
あの夜の型を、彼女は憶えている。低く、長く、途切れさせない。この家は人の数のわりに冷えていたから、そう選んだ。選び方は正しかった。正しく選んで、正しく夜を持ち上げて、中身のない箱を送った。
仕事としては、非の打ちどころがない。
「あなたに、嘘をつかせた」
オルデリクが言った。
「そのことは、謝らない。謝れば、あの人が死ぬ」
「はい」
「もう一つある」
彼は暖炉から目を離さない。
「私は、あの夜、泣かなかった」
部屋が静かになった。
「泣けば、嘘になる。渡ってほしくない人のために、泣けるはずがない」
リゼットは、息を止めていた。
一年間、この家の誰も泣かなかった夜のことを、彼女は数えてきた。三十七人のうち泣いたのは二人。親族の泣き方は揃いすぎていた。使用人は俯いていた。喪主は一晩、まっすぐ立っていた。
三つとも、理由が違うと思っていた。
いま、三つ目が埋まった。
「なぜ、わたくしを雇われたのですか」
訊いたのは、彼女のほうだった。
オルデリクは机の縁から離れて、書架の前に立った。下の段のあたりを見ている。開けはしなかった。
「あなたが、この家の名を全部憶えているからだ」
「帳を」
「あれを持っている人間は、この領に一人しかいない。神殿の記録を疑うことはできない。疑えば涜神だ。だが、泣き女の帳と突き合わせることは、誰にも禁じられていない」
証人が欲しかった、ということである。
「言わなかったのは」
「言えば、あなたが知る。知った人間は顔に出る。顔に出れば、この家では長く保たない」
「六年で、三度」
「四度だ」
訂正された。
王都の組合で、四十年ぶんの帳を抱えて、湯を飲んでいた老女のことである。
リゼットは椅子の上で背を伸ばした。伸ばさないと、声が出そうになかった。
「一年ぶんのお約束を、先に買われました」
「ああ」
「これから人が亡くなると、ご存じでいらしたのですね」
「知っていた」
「知っていて、わたくしをここに置かれました」
「そうだ」
彼は言い訳をしなかった。
「私は、ひどいことをした」
その一言だけだった。
弁解を足せば、少しは楽になる。理由を並べれば、聞くほうも受け取りやすくなる。この人はそれをしない。一年前の同じ部屋で、答えられないとだけ言って、あとを言い足さなかったときと同じだった。
薪がまた崩れた。
リゼットは、湖畔で言われた言葉を思い出していた。八月の草の中で、背中越しに落ちてきた言葉である。
泣けないのは、あなたのせいではない。
あのとき、確かめたことのある人間の言い方だと思った。どこで確かめたのかを、訊かずに来た。
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なんだ」
「閣下は、いつから泣いておられませんか」
オルデリクは、書架のほうを向いたままだった。
長い沈黙があった。この人の沈黙の長さには種類がある。答えを探しているとき、答えたくないとき、そして、答えが一つしかないとき。
「六年前だ」
暖炉の火が、薪の腹を舐めて細くなった。
「兄の葬儀の夜だ」
彼は書架の下の段に手をかけた。かけて、開けなかった。
「その名を、言ってもいいか」
訊かれて、リゼットは意味が分からなかった。
喪はとうに明けている。六年前の死者の名を口にすることを、誰も禁じていない。禁じられていないのに、この人は許しを求めた。
「……どうぞ」
「アルヴィス」
一度で言った。詰まらなかった。
言ってから、彼は黙った。口の中にまだその音が残っているのを、確かめている黙り方だった。
「当主になる者は、取り乱してはならない。叔母上がそう言った。作法としては正しい。私は次男で、その日から跡継ぎになった。だから一晩、まっすぐ立っていた」
「一晩」
「日没から夜明けまでだ。泣き女が泣いていた。年寄りの、うまい人だった」
その人の帳が、いま彼女の膝の上にある。
「立っているうちに、夜が明けた」
彼の手が、書架の把手から離れた。
「それから、泣き方を、忘れた」
六年前の広間で、一晩まっすぐ立っていた男がいる。
十一年前の家で、一晩座って、声の出なかった娘がいる。
どちらも夜が明けて、どちらもそれきりだった。片方は泣かない人になり、片方は他人のためだけに泣く女になった。同じ形の穴に、別の蓋をしただけである。
──わたくしと、同じでございますね。
そう申し上げようとして、申し上げませんでした。




