第21話 名前のない人
湖を回るのに、半日かかった。
舟は使えなかった。舟頭に頼めば、頼んだことが屋敷に伝わる。北の村を回って葦原へ下りる道は、荷馬車が通れないほど細く、途中で二度、凍った泥に足を取られた。
十二月十日の午後である。空は低く、風がない。葦の枯れた匂いが、道の両側から立っていた。
小屋は、思っていたより小さかった。
石を積んだ土台に、板と葦の屋根。煙出しから細い煙が上がっている。薪を焚いている。屋敷から運ばれた薪だろう。
戸口の脇に、竿が渡してあった。
布が三枚、干してある。
白い。四角い。顔を覆う大きさに裁ってある。
リゼットは足を止めた。
風がないので、布は垂れたまま動かない。日を透かしている。織りが細かい。糸が均されていて、目が詰んでいる。
彼女の袖の内側に、同じものが入っていた。
小屋の周りに、人の通った跡はなかった。
踏み分け道が一本、水際へ下りている。水を汲む道だろう。それ以外、どこへも続いていない。北の村へ向かう道にも、南の葦原にも、足跡はなかった。
八ヶ月、この人はここから出ていない。
葦の中で、水鳥が一羽鳴いた。
戸が開いた。
女が立っていた。
黒い外套である。背丈はそう高くない。髪を後ろでひとつに束ねて、布で包んでいる。二十代の後半だろう。頬が痩せていて、目のふちに影がある。
その顔を、リゼットは知らない。
一年前のあの夜、棺は最初から閉じられていた。伏せは遺族の仕事である。泣き女が着いたときには蓋が下りていた。彼女はその人の顔を一度も見ていない。
名を呼ぼうとして、また止まった。
喉のところで、いつもの重さが下りてくる。
「泣き女さん」
女のほうが、先に言った。
声が低い。喋り慣れていない人の、少し掠れた出し方だった。
「あなたが、わたしのために泣いてくださった方ね」
リゼットは頭を下げた。
下げてから、それが正しい作法なのかどうか分からなかった。死者に礼を返す作法を、組合は教えていない。
「聞こえていたの」
女は言った。
「湖のこちら側まで。夜通し。声が、水を渡ってくるのよ。この土地は霧の日は音がよく通るから」
「……申し訳ございません」
「なぜ謝るの」
答えられなかった。
女は戸を開けたままにして、中へ入っていった。入れ、とは言わなかった。閉めもしなかった。
小屋の中は、暗くて温かかった。
土間に炉が切ってあり、薪が三本くべてある。壁際に麦の袋と、油の壺と、薪の束。寝床は板の上に藁を敷いただけのものだった。
女は炉の脇に座り、鉄の鍋を火にかけた。
「毒だったの」
前置きがなかった。
「去年の春。朝の茶に入っていたわ。三口飲んで、手が痺れて、そこで気づいた。全部飲んでいたら、たぶん死んでいた」
リゼットは戸口の内側に立ったままだった。
「わたしは屋敷で八年暮らしたけれど、あの家では、二度目が必ず来るの」
鍋の水が鳴りはじめた。
「だから、死んだことにしてもらったの」
してもらった。
誰に、とは言わなかった。
「わたしが余計なことを調べたから、そうなったのよ」
「調べ、と申されますと」
「数を」
女は火の中の薪を、一本だけ動かした。
「侍従長のリカルドと、文書番のエルマ。二人とも、ある日から屋敷に来なくなった。荷物を残して。それで、神殿の記録を見せてもらったの。公爵夫人という立場は、そういうときに便利なのよ。司祭は断れないから」
「載っておりましたか」
「載っていたわ。渡りが成った、と書いてあった」
湯が沸いた。女は鍋を火から下ろした。
「でも、あの二人の葬儀を、わたしは知らない。屋敷にいたのに。八年いて、屋敷で出た葬儀は全部知っているのに、あの二人のときだけ何もなかった」
リゼットの指が、抱えた帳の背にかかった。
泣き女の割り振り記録に、その二件がない。師の四十年ぶんの帳に、呼ばれずと書いてある。神殿の名簿には、渡りが成ったと書いてある。
三つの紙が、同じ穴を三方向から指している。
「わたしが数えたのは、二人」
女は言った。
「そこで、わたしの番になった」
湯を注いだ椀を、女は土間の縁に置いた。座れ、という意味らしかった。
リゼットは座った。椀は熱く、中身は湯だけだった。茶葉はない。
「あの布は、どちらから」
戸口の竿のほうを、リゼットは目で示した。
「荷に入ってくるの。麦と、油と、薪と、布が何枚か。半年に一度ね」
「同じ織りでございます」
「何と」
「わたくしが使っているものと」
女は目を上げた。上げて、すぐに火のほうへ戻した。
「同じところで買っているのでしょう。ここらであの手の麻を扱う店は、領都に一軒しかないわ」
布は布である。
それでも、この一年、彼女の部屋の前に置かれてきた布と、この小屋の戸口に干してある布は、同じ人の手配で動いている。
「あなた、なぜここへ来たの」
「対岸から、お姿を」
「見えた?」
「見えました」
女は少し黙って、それから口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「じゃあ、わたしの負けね。動かなければよかった」
「どなたに、死んだことにしていただいたのですか」
訊いた。
訊いてしまってから、これは訊いてよいことなのかと考えた。
女は答えなかった。
湯を一口飲んで、椀を置いて、それから炉の火を見た。火が薪の端を舐めて、乾いた音を立てている。
「わたしはもう、名前がないの」
答えの代わりに、そう言った。
「返してもらう予定もないわ」
同じ抜け穴である。
名を書けば、人は法の上で死ぬ。書いたのは同じ司祭で、使われた仕組みも同じである。侍従長と文書番は、それで消えた。目の前の人も、それで消えた。
消されたのか。逃がされたのか。
やり方が同じなら、外から見て区別がつかない。区別をつけられるのは、やった人間の中にあるものだけで、それは紙に残らない。
湖の対岸に小屋を借りて、麦と油と薪を半年ごとに運ばせる。生かしているとも言えるし、置いているとも言える。屋敷から半日、舟で半刻。誰にも会わず、誰にも見つからず、名前もない。
この人がいなくなって困る人間が、屋敷に一人もいないということでもある。
リゼットは椀を両手で持った。湯が冷めかけていた。
帰りは、来た道を戻るしかなかった。
日が傾いていた。葦原の上を風が渡って、枯れた穂が一斉に鳴った。
戸口まで、女がついてきた。
「泣き女さん」
「はい」
リゼットは振り返り、そこで、職業上の確認を一つだけした。しなければならないことだった。
「五ヶ月後に、返名の儀がございます」
「知っているわ」
「わたくしは、あなた様のお名前を、お返ししなければなりません」
風が止んだ。
葦の音が消えて、湖の水の音だけが遠くに残った。
女は戸の枠に手をかけたまま、長いこと動かなかった。
「返してくれるの? ──返したら、どうなるの」
わたくしは、答えられませんでした。




