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泣き女のわたくしが呼ばれたのは、誰ひとり泣かなかった公爵夫人の葬儀でした ~涙を売る令嬢と、涙を忘れた公爵~  作者: ヲワ・おわり


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第20話 向こう岸

 初冬の霧は、一日に一度だけ動く。

 朝から夕まで白いままの日でも、風の向きが変わる時刻がある。領都の者はそれを渡し日和と呼んで、その時間に洗い物を干し、屋根を直し、湖に舟を出す。

 十二月五日、リゼットは舟着場に立っていた。

 返名の儀まで、五ヶ月と五日である。舟の数を先に押さえておかねばならない。四艘を出すには、四人の舟頭と、四つの櫂と、その夜に他の用事がないことの確認が要る。

 舟頭は五十がらみの男で、指の関節がどれも太かった。

 「四艘なら、二日前に言ってくれりゃ出します」

 「島へは、その夜だけでございますか」

 「その夜だけです」

 男は杭に結んだ縄の緩みを直しながら答えた。

 「島は分祠のもんで、儀のとき以外は誰も上げません。うちの親父の代から、そう決まっとります。渡ったら罰が下るとかいう話じゃなくて、単に、上げちゃいかんことになっとる」

 「もし、行かれた方がいらしたら」

 「おらんです」

 断言だった。

 やり直しがきかない。五月十日の一夜に、四艘の舟が出て、名が返る。それきりである。遅れれば翌年に持ち越しになり、持ち越された名は、もう一年、返らないまま残る。

 リゼットは対岸のほうを向いた。

 白い。水面の三十歩先から先が、もう白い。

 「向こう岸は、遠うございますか」

 「舟で半刻ってとこです。まっすぐ行けばね」

 「村がございますね」

 「村はもっと北です。ここの正面は葦原で、昔から人は住んどらん」

 舟頭は縄を結び終えて、腰を伸ばした。

 「泣き女様も、物好きなことで」

 「と、申しますと」

 「こんな時季に湖を見に来る人は、あんまりおらんです。冬の湖は何もねえですから」

 男は笑った。悪気はない。

 「まあ、番小屋が一つありますけど」

 「番小屋」

 「葦を刈る季節に人が入るだけの、小屋です。今は、女がひとり」

 水が杭に当たる音が、二つ聞こえた。

 「ひとりで、でございますか」

 「そう聞いとります。会ったことはねえです。春ごろに入ったって話でしてね」

 「春」

 「四月の頭くらいですかね。旦那様が、年に何度か荷を積ませなさる。麦と、油と、薪と。わしが漕ぐわけじゃないですが、うちの倅が二度、頼まれました」

 彼女は、何も言わなかった。

 舟頭は縄の余りを巻きながら、世間話の続きの顔をしている。この人にとって、それは荷である。誰かが対岸で暮らしていて、領主がその面倒を見る。よくある話だった。領主が囲っている女だと思っている口ぶりですらあった。

 四月の頭。

 名簿の記載は、四月一日。

 渡しは、五月十日。


 風が変わったのは、それから四半刻ののちである。

 白いものが、横に流れはじめた。

 湖の霧は上へ抜けない。水の上を這って、東へずれていく。その動き方が、剥がすのに似ている。三十歩先の白が薄くなり、水面の灰色が現れ、対岸の線が下から順に出てきた。

 葦原が見えた。

 枯れた葦が、灰色の帯になって岸を埋めている。その手前、水際から少し上がったところに、小屋の屋根があった。

 屋根の脇に、人が立っていた。

 黒い外套である。

 女だった。背丈は、そう高くない。両手を前で組んで、まっすぐ立っている。動かない。

 リゼットは桟橋の端まで出た。

 顔は見えない。半刻の距離である。見えるはずがない。彼女は棺の前に立つ人を六年見てきたが、湖ひとつ隔てて顔を見分けられるほどの目は持っていない。

 見分ける必要が、なかった。

 四月一日に、この領の死者名簿に一つ名が記された。

 四月の頭に、対岸の番小屋へ女がひとり入った。

 五月十日に、彼女はその名の渡しで夜通し泣いた。夜が明けて、棺が運び出された。担ぎ手の膝が速く伸び、歩幅が縮まず、石段を降りるつま先が段を探らなかった。

 棺を検める者は、いない。

 泣き女は棺を検めない。司祭の記載だけで渡しは成立する。死に触れるのは穢れであり、司祭の言葉を疑うのは涜神だからである。誰も、蓋を開けない。

 一年間、彼女はそれを職業の前提として受け入れてきた。

 女が、こちらを向いた。

 向いたように見えた、という以上のことは言えない。距離がある。それでも、彼女がそれまで水面を見ていて、そこで顔の向きを変えたことは、外套の肩の線で分かった。

 リゼットの口が開いた。

 名を、呼ぼうとした。

 出なかった。

 喪の間、死者の名を口にしてはならない。名を呼べば死者が振り返り、渡り損ねる。だから泣き女は預かる。預かった名は、返名の儀の夜まで、世界の誰も口にできない。

 その名を憶えているのは、この世で彼女ひとりである。

 ひとりだけが憶えていて、そのひとりだけが、呼べない。

 彼女は桟橋の上に立ったまま、手を上げることもしなかった。

 上げてどうなるものでもない。向こうも上げないだろう。あの人は、上げてはいけない側にいる。

 八月に、同じ場所に立った。

 霧が対岸を消したあと、あの人は長いことそこを見ていた。この三月で、あれほど長く一つのところを見ているのを初めて見た。そう思ったことまで、憶えている。

 あちらには何かございますか、と訊いたのは自分である。

 一拍あって、答えが返ってきた。

 ──何もない。

 あのとき、彼が見ていたのは、この葦原と、小屋の屋根と、そこにいる人だった。見ていて、何もないと言った。

 同じ日の、同じ口から、別の言葉も出ている。

 泣けないのは、あなたのせいではない。

 どちらも同じ声だった。言い切る声だった。確かめたことのある人間の言い方だと、彼女はそう聞いた。

 どちらが本当かを測る術を、彼女は持っていない。


 霧が閉じるのは、開くより速かった。

 東へずれた白が、湖の中ほどで一度厚くなり、押し返してきた。葦原の帯が消え、小屋の屋根が消え、黒い外套が最後に消えた。

 水面の三十歩先から先が、また白くなった。

 リゼットは動かなかった。

 頭の中で、数が組み変わっていく。

 三つ、合わなかった。泣き女の立会いのないまま死者にされた人が二人。泣き女がいたのに、記載が四十日早い人が一人。

 急にいなくなった人が三人いる、と娘が言った。名前を言えるのは二人だけだと。三人目は、言ってはいけない人だからだと。

 三人目が誰なのか、彼女は分からなかった。

 分かった。

 膝の力が抜けて、彼女は桟橋の板の上に座り込んだ。板が冷たい。指先に霜が触れた。

 鞄から帳を出して、一年前の頁を開いた。

 五月十日。名前と、喪主の名。彼女の字である。書いたとき、手は震えていなかった。六年で慣れた、と思っていた。

 その名の返名は、五ヶ月と五日後である。

 返す相手が、対岸に立っている。

 生きている者の名は、返せない。

 八月の桟橋で、彼女自身がそう説明した。読み上げた名に応える声があれば、その渡しは無かったことになる。名簿から名が消える。法の上でも、その人は死んでいなかったことになる。

 説明したとき、隣にいた人は、水が杭に当たる音が三つ聞こえるあいだ黙っていた。

 そのあとで、そうか、とだけ言った。


 名を呼ぼうとして、呼べませんでした。

 喪が明けるまで、あの方の名を口にできる者は、この世に誰もおりません。


 ──わたくしが、預かっておりますので。


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