第4話 離さない指先
「…………」
静かな控室だった。
遠くから、夜会の音楽だけが薄く聞こえてくる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに遠い。
その静けさの中で。
カイルは、ソファへ凭れたまま眠っているエルマを見下ろしていた。
「……いや、マジで何だったんだよ」
小さく呟く。
返事はない。
当然だ。
本人は半分気絶している。
ダンスの途中で顔を真っ赤にして。
足をもつれさせて。
そのまま倒れかけた。
普通なら笑い話だ。
だが。
あの瞬間のエルマは、明らかに様子がおかしかった。
呼吸は浅いし。
目も合わないし。
触れた瞬間、完全に処理が止まっていた。
「…………」
カイルは無意識に、自分の胸元へ視線を落とした。
さっきまで、ここへエルマの顔が押しつけられていた。
柔らかい髪。
熱い頬。
近かった呼吸。
妙に残っている感触。
「……近すぎただけ、か?」
そう呟いてみる。
でも。
なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
その時だった。
「……ん」
小さな声。
眠ったままのエルマが、かすかに眉を寄せる。
そして。
何かを探すみたいに、指先が頼りなく動いた。
「?」
カイルが首を傾げる。
机。
膝。
ソファ。
空を掴むみたいに、指先だけが動いている。
「何探してんだ……?」
そこで。
机の上に置かれた眼鏡が目に入った。
「あー、これか」
何気なく手に取る。
すると。
眠ったままのエルマの手が、ぴくりと反応した。
「……?」
カイルは少し迷ってから、その眼鏡をそっとエルマの手へ乗せる。
瞬間。
ぎゅっ、と。
エルマがそれを抱き込んだ。
まるで。
取られたくない宝物みたいに。
「…………」
カイルが止まる。
その仕草が。
妙に胸へ引っかかった。
安心したみたいに。
ほっとしたみたいに。
エルマの肩から、少しだけ力が抜ける。
「なんなんだよ、それ……」
ただの眼鏡だろ。
なのに。
そんな顔をするほど大事なのか。
カイルは、眠るエルマをじっと見る。
眼鏡のない顔。
長い睫毛。
少し赤い耳。
頬へ落ちる柔らかい髪。
別に。
驚くほど派手な美人ってわけじゃない。
でも。
妙に目が離せなかった。
「…………」
なんか。
変だ。
いや。
違う。
変じゃない。
むしろ。
「……なんか、見たことある気がするんだよな」
小さく呟く。
どこでだ。
思い出せそうで、思い出せない。
ただ。
胸の奥に、妙な引っ掛かりだけが残る。
その時。
エルマが小さく身じろぎした。
すると。
ソファから落ちそうになった手を、カイルが反射的に掴む。
細い。
驚くほど軽い。
「……危ねぇ」
その瞬間だった。
ぎゅっ。
「っ?」
今度は。
エルマの方から、カイルの服を掴んだ。
眠ったまま。
無意識に。
離さないみたいに。
「…………は?」
カイルが固まる。
しばらく、その手を見る。
逃げるように距離を取っていたくせに。
触れられると固まっていたくせに。
なのに今は。
自分から掴んでいる。
「……お前」
胸の奥が妙にざわついた。
嫌われてるわけじゃない。
それだけは、なんとなくわかった。
でも。
じゃあ何なんだ。
なんであんなに逃げる。
なんであんな顔する。
なんで俺が近づくと、呼吸止まりそうになってる。
意味がわからない。
その時。
「なるほど」
静かな声。
振り向けば。
いつの間にか、クラリスが紅茶を持って立っていた。
「お前いつ入ってきた」
「十分ほど前から」
「声かけろ!!」
クラリスは静かにエルマを見る。
「……ようやく接触成功ですね」
「だから何の話だ」
「十数年越しの恋愛戦線です」
意味がわからない。
でも。
カイル自身、視線だけは眠るエルマから離せなくなっていた。
「……随分と熱心に見ておられましたね」
「は?」
「睫毛の本数でも数えておいででしたか?」
「数えてねぇよ!!」
即答だった。
だが。
言われた瞬間。
自分がずっとエルマを見ていたことに気づく。
「…………」
妙に気まずい。
クラリスは、ほんの少しだけ目を細めた。
完全に面白がっている顔だった。
やめろ。
「……まあ、前進ではあります」
「何がだよ」
「十数年動かなかった戦線が、ようやく動き始めましたので」
「だから意味わかんねぇって……」
カイルはため息を吐く。
でも。
視線だけは。
眠るエルマから離せなかった。
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