第2話 接近戦は想定されておりません
終わった。
完全に終わった。
人生が。
夜会開始から、まだ一時間も経っていないというのに、エルマの精神はすでに瀕死だった。
「…………」
柱の影。
エルマは静かに壁際へ避難していた。
逃げである。
戦術的撤退である。
これ以上、前線に留まれば死ぬ。
主に情緒が。
先ほどから呼吸が安定しない。
視線を向けるたびに心拍数が跳ね上がる。
心臓がうるさい。
落ち着け。
二十三歳だ。
淑女たれ。
社交界歴だって短くない。
大丈夫。
まだ平静は装えている。
たぶん。
「…………」
無表情。
完璧。
少なくとも外から見れば……。
内面は違う。
完全に違う。
(落ち着きなさい私)
(大丈夫)
(まだ平静を装えています)
(呼吸もできています)
(たぶん)
その時だった。
「……お前」
声!
近い。
近い近い近い。
エルマの全身が硬直した。
恐る恐る顔を上げる。
いた!
カイル。
目の前に。
終わった……。
「やっぱりエルマか?」
「――――――――」
脳が爆発した。
(なんで来るんですかーーーーーー!!!)
(いや来ますよね!!)
(今さっき“見たことある”ってなってましたよね!?)
(逃げるべきでした!!)
(判断が遅い!!)
だが表面上は完璧だった。
長年積み上げてきた淑女の仮面は、こういう時のためにある。
「……ごきげんよう、カイル様」
声が少し裏返った。
終わった。
「なんでそんな他人行儀なんだ?」
やめて。
その自然な距離感やめて。
「い、いえ別に」
「久しぶりだな」
久しぶり。
久しぶり。
久しぶり
……ぶり
……り
頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。
やめてほしい。
そんな昔と変わらない距離感で話しかけないでほしい。
そんな普通みたいな顔しないでほしい。
こっちは十年以上ずっと引きずってるんですが!?
まだ好きなんですが!?
今でも近づかれるだけで呼吸止まりそうなんですが!?
「…………はい」
無理。
声が出ない。
カイルは不思議そうに少しだけ首を傾げた。
昔から変わらない癖だった。
わからないことがあると、ほんの少しだけ首を傾げる。
それを見るたびに。
(あーーーーーーーー!!!)
脳内エルマが床を転がり回る。
(その癖まだ残ってるーーーー!!)
(学院時代もそれやってたーーーー!!)
(質問されて困るとちょっと傾げるやつーーーー!!)
(知ってる! 私しか知らないやつーーーー!!)
(違う……たぶん皆知ってるーーーー!!)
ふと。
記憶がよみがえる。
学院時代。
中庭へ面したテラス席。
エルマは本を開きながら、何気ないふりをして外を見ていた。
騎士科の訓練場。
木剣を振る少年達。
その中に、赤い髪。
気づけば、ページをめくる手が止まっている。
そして。
「三ページ前から進んでおりません」
横から静かな声。
「!!?」
当時から完璧だったクラリスが、優雅に紅茶を口へ運びながら淡々と言った。
「視線追尾頻度が異常です」
「な、何の話ですか!?」
「カイル様ですね」
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
終わった。
あの頃から終わっていた。
「……エルマ?」
「ハッ」
危ない。
意識が飛んでいた。
「具合悪いのか?」
悪いです。
あなたのせいで。
「だ、大丈夫です」
「顔赤いぞ」
やめろ!
見ないで!
「会場暑いですし」
「そうか?」
カイルが自然に周囲を見る。
その瞬間。
エルマは改めて理解した。
近い。
今、ものすごく近い!
昔より背が高い。
肩幅も広い。
圧が強い。
存在感が完全に騎士。
無理。
(待って待って待って)
(近い)
(昔こんな近かった!?)
(いや子供の頃は普通に近かった)
(でも今は違う)
(二十三歳ですこちら)
(男女です)
(距離ーーーーーーーー!!)
その時。
「カイル様」
静かな声が割って入った。
クラリスだった。
助かった。
いや助かってない。
どっちだ。
クラリスは二人を見ると、わずかに目を細めた。
「なるほど」
やめてその顔。
完全に理解した顔やめて。
「……何がだ?」
カイルが聞く。
クラリスは静かに答えた。
「長期膠着状態かと」
「???」
カイルは意味がわかっていない。
やめて。
本当にやめてください。
エルマは今すぐ消滅したかった。
クラリスはそんな彼女を見つめながら、淡々と続ける。
「なお、対象は極めて警戒心が強く」
「接触と同時に撤退行動を取ります」
「……?」
「長期間に渡り、一定距離以上を維持し続けています」
やめろーーーーーーーー!!!
エルマの内心は絶叫していた。
なんなんですかこの人。
昔からずっとそうだった。
学院でも。
夜会でも。
全部見抜いてくる。
怖い。
昔から、この人にだけは隠しきれない。
「クラリス」
「はい」
「お前、何の話してる?」
「恋愛戦線です」
真顔だった。
エルマは死んだ。
社会的に……
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