第十五話 ケルベロス
邪神教団のアジトは、最悪の場所だった。
狭い部屋に、何人もの子供たちが閉じ込められていた。
私とお兄様、そしてミランダさんも同じだった。
ミランダさんは私たちよりも先に連れてこられていた。
最初は抵抗していたらしいけれど、大人たちの暴力に屈してしまい、もう抵抗する気力すら残っていないようだった。
抵抗すればするほど、食事の量まで減らされてしまう。
ここは信者の子供たちを集めた施設なのだと説明されたけれど、すでに何人かの子供たちは洗脳されていた。
「皆さん、ようこそお越しくださいました」
教団の幹部である女性が、私たちに向かって微笑んだ。
「皆さんには、これから修行を受けていただきます。この修行を行えば、今までのつらいことはすべて忘れられます。そして、才能のある子供たちは邪神様と一体になることができるのです」
彼女は、まるで素晴らしい未来を語るかのように言葉を続けた。
「そうなれば、もうすべてが手に入ります。皆さんは今まで貧しい生活をしてきたかもしれません。でも、これからは何も心配することはありません。私たちの言うことさえ聞いてくれれば、食事もきちんと与えられます。寝る場所にも困りません。そして、もうすぐ天国に行くことだってできるのです。ですから、頑張りましょうね」
教団の幹部は、そう言って笑っていた。
私はここに連れてこられる前、母親に助けを求めた。
「私、そんなところに行きたくない! 助けて、お母さん!」
けれど、あの女は平然と答えた。
「リサ、大丈夫よ。確かに心配かもしれないけれど、二人がこれから行くところは天国みたいな場所なの。もう今の世界の苦しみなんて感じなくていいのよ。邪神様の教えにすべて従っていれば、自分で考える必要もなくなる。不安なんてすぐになくなるわ」
そして、優しく言い聞かせるように続けた。
「子供もたくさんいて、それは、それは楽しい場所だから、すぐに慣れてしまうと思うわよ。それに、少しの辛抱だから大丈夫」
何の悪意も感じさせない口調だった。
だからこそ、恐ろしかった。
幼心にも、これはまずいと思った。特に「天国に行く」という言葉が、ずっと心に引っかかっていた。
もしかしたら、私たちは生け贄にされるのではないだろうか。
そんな恐ろしい想像が頭から離れなかった。
そして、いつもは冷静なお兄様も、この場所に来てからは警戒心を露わにしていた。
ほとんど眠ることもなく、常に周囲を警戒していた。
毎晩、子供たちの人数が減っていないか確認していたし、大人たちが誰かを連れ去ろうとすると、自分も一緒に行くと言って譲らなかった。
すべては、みんなを守るためだったのだ。
私はずっと、そんなお兄様の背中に隠れていた。
これ以上ここにいたらまずい。
そう判断したお兄様は、見張りが手薄になる儀式の準備期間を狙って、施設の壁を破壊した。
本来ならば、闇の魔力が込められたその壁は、簡単には壊せないはずだった。
しかし、お兄様の規格外の魔力によって、壁はいとも簡単に崩壊したのだった。
「みんな、こっちから逃げるよ! この道を進めば町に帰れる!」
お兄様はそう叫び、自分は追っ手を足止めするために最後尾を歩いた。
しかし、何人かの子供たちは逃げようとしなかった。
「僕はいい。ここに残る」
そう言って、教団に残ることを選んだのだ。
すでに教団の教えを信じ込んでいたのだろう。さすがのお兄様も、彼らを無理やり連れ出すことはできなかった。残された子供たちが、その後どうなったのかはわからない。
そして、逃げる私たちの前に、恐ろしい存在が現れた。真っ黒な体に、三つの頭を持つ巨大な犬。邪神の化身、ケルベロスだった。
ケルベロスは、子供たちの足など簡単に上回る速さで迫ってきた。獰猛な咆哮を上げながら、私たちとの距離をどんどん縮めていく。
まるで、自分たちが狩人に追われる獲物になったような気分だった。
「……ここまでか」
お兄様が、ぽつりと呟いた。そして、私のほうを向いて優しく笑ってくれた。
「リサ、僕はここに残る。僕なら、あいつを少しは足止めできるかもしれない」
「お兄様……?」
「いいかい。すぐに町まで逃げて、魔導士隊を呼んでくるんだ。リサにしか頼めないことなんだよ」
でも、私は怖くなって首を横に振った。
「嫌だ! お兄様と離れるなんて嫌! 私にそんなことできない!」
涙を流しながら訴える私を、お兄様はゆっくりと抱きしめてくれた。
「ありがとう、リサ。僕は君のためなら、どんな危険だって冒せる。命を懸けることだってできるんだ」
そして、お兄様はミランダさんに視線を向けた。
「ミランダ、リサを頼むよ」
そう言い残して、お兄様はケルベロスへと向かっていった。
「リサちゃん、行くわよ!」
ミランダさんが、私の手を必死に引いた。私は何度も振り返りながら、お兄様から遠ざかっていった。
そして、あの悲劇が起きた。
――そこで、目が覚めた。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。
荒い息をなんとか整えながら、私は窓の外を確認する。まだ暗闇が世界を支配していた。起きるには、あまりにも早い時間だった。
「……また、あの夢を見てしまった」
私は小さくため息をついた。気持ちを落ち着かせるために、これまで自分で調べてきたケルベロスのことを思い出す。
ケルベロスは邪神の化身であり、邪神教団はそれを成長させることで邪神を復活させようとしていた。では、どうやって成長させるのか。答えは、魔力の才能に恵まれた子供たちを食べさせることだった。
もちろん、大人でも効果はあるらしい。しかし、大人の場合は抵抗される危険性が高い。だからこそ、私たちのような子供が選ばれたのだ。
そして、おそらく本命はお兄様だった。
お兄様を取り込むことができれば、邪神は復活していたはずだ。
ケルベロスは、いくつもの魔道具と生け贄を必要として召喚される存在だ。一体でも地上に現れれば、甚大な災厄をもたらす。
討伐するためには、国家規模の戦力が必要になるとされている。過去にも何度か、王国に反旗を翻した者たちによってケルベロスが召喚されたことがあった。そのたびに甚大な被害が発生し、多くの犠牲を払ってようやく討伐されてきた。
ケルベロスと戦った者たちのほとんどは、命を落としている。ケルベロスを討伐して生き残った人間など、お兄様くらいしかいない。
そして、そのお兄様でさえ、あまりにも大きな代償を支払うことになった。
だからこそ、お兄様は若き英雄として世間からもてはやされた。けれど、その熱狂は、やがて失望へと変わっていった。
お兄様が、以前のように歩くことができなくなったからだ。世界を救ったという事実は、何ひとつ変わらないはずなのに。
人々は勝手に期待し、勝手に失望した。お兄様がどれほどの犠牲を払ったのかも知らずに。
本当に、この世界はなんと愚かなのだろう。




