2212_冬の核、格言、至言の資源。
核の炎に包まれる予定の年表より、二十数年が過ぎているわけではございますが、未だに可能性が見えているという恐怖とかみなさまどうお考えであるのでありましょうか、いやまあ、考えても仕方がないことに思い悩む時間がもったいないというのは確かではございますが、この場合、いきなり天が落ちてくることが現実的にあるという感じではあるので、いくらか備えていた方がよろしいのかもしれず、いや、具体的にはどうするのか?となると、難しいものがございますが、などとぼんやりと終末対策を思い描きながら始まる今日のゴブリンでございます。
幼児が大きくなるまでは平和を保つことが大人の義務ではあるのかなとは思うわけではございますが、はてでは大人とはなんぞやとか尋ねられるとこれはまあ、さまざまではあるなぁと。良い指摘だとは思います。今日も元気可愛いですな。
このような世の中にしてしまったのは、それはそれに関わってきた全ての人格の責任であるという話ではあるわけではありますが、大体は、これはもうどうしようもなかったと諦めるしかない状況やら環境やら、展開やら歴史的な流れやらがあることもまた確かであり、すでに、今生きている活動している人格以前の段階でひどいやらかしをしてしまった後のことで、責任云々と言われてもという感覚ではあるのではなかろうかなとは想像できるわけではあり。
なので謙虚に失敗の連続であったということを認め、須く反省から評価を正しく客観的に行い、対応を粛々と進めるしかないということは確かではあるのでありますが、基本相手の失敗を利用して利益を得ようとすることは普通にある展開であるので、なかなかに理性的に行動することはできず、と申しますか、そもそも失敗ではないという認識で自分自身も騙していくことになっている、のではなかろうかなとは予想できるわけでございまして。
現状理想的な展開になっていないのであるならば、それはどこかで失敗しているのであろうよという認識を万人が持つ必要があるのであろうかなとは予想するわけではありますが、これは成功に続く行為であり必要な犠牲であるという認識もあったりするわけで、なかなかに意識やら意思の統一は難しくあり、まず、不可能ではあるわけで。
ただそれはむしろ自然なことではあり、誤解は必然的に生まれるものであり、また必要なものでもある、可能性があるわけでありまして、なぜならば全ての人々が論理的に客観的に感情に縛られないで最適解を導き出すということは、これはまあ、確率的に不可能であるわけであるならば、ではどうするのかというと、誤解させて誤魔化して取り繕ってどうにかしてまとめてしまうしかないというわけであり、ある意味そうすることによって、正しいかどうかは別として、何事かが発展する、変質する、ことになる、のではなかろうかなという予想があるわけでございまして。
言葉が通じない、同じ言語を使用しているのにも関わらず、ということは普通なことであり、むしろそうでなければ物事が進んでいかない、大胆な変質を起こさない、というわけであり、変化を望むならば相互の理解を完璧にしようという動きはむしろ邪魔になる可能性すらあり、ただ、その共通認識を正しくしようとする動きそのものは更なる混乱を巻き起こすことになるので、逆の役割として必須である、可能性もあり。
何を信じればいいのであるかというと、これはまあ信じたいものを信じるしかないとしかいう他なく、対象は、時と場合と環境によって、最適なものが変わり続けているという認識をきちんと持っておいて、行動するしかないということではあり、絶対に正しいというものはないのであるという、妥協をする精神もまた必要になる、のではなかろうかなとか。
学習が進み、効率的な客観的な論理的な思考に過半数以上のほぼ全ての人格が成長するか変質した時のみ、行われる理想的な動きというものは、これはまあ、とてつもなく長い年月が必要になるわけであり、そこにいずれ辿り着くには、とりあえず、現状をどうにか誤魔化して時間を稼がなければならない、ということではないかな?と、毎度同じようなことを予想したあたりでおしまいです。
「神様が猶予をくれていると信じると余裕が出てきたりもしますね」
「数字で表すとすでに末期状態ではあるとわかるのですがどうなのでしょう?」
「それが宗教の役割なんでしょうな”旦那様”
真綿首ですな”奥様”」




