2209_にじがれいんぼう、弓から矢、藪から棒。
性別の自由はどこまで許されるのかという議題にはまあ環境によりますとしか答えようがなく、その都度判断する必要があるけれども明確な基準はその時々の法律やら慣習やらで左右されるのではなかろうかなと、現状、かなり緩やかにその権利が認められつつあるという感じではあるのでありますが、基本肉体に引っ張られることは確からしいので、見た目が大事という話にはなりそうではあるかなと観察している今日のゴブリンです、まあ、無駄話の範疇であるので、あまり真面目に聞かなくとも良いかと?
幼児には男女差があまり見られないのでどっちでも良いのではないかということになりそうではあるけれども、むしろどちらかにらしい格好を強要させる方が問題ではあるのでしょうね。いやまあある程度は環境に沿って洗脳めいた服やら嗜好の選択がされそうではありますが。ここは特殊ではありますか?今日も元気可愛いですな。
脳と体の性別が一致しないというのは普通に存在する案件であるそうでありまして、それは不幸であるのかどうかという判断は置いておいて、そういうものであると受け止めることが肝要ではあるかなとか、いやまあ、実のところそもそも愛情に疎い、薄いような、感情の起伏があまりないような人格であれば、男女どちらでも問題がないということにはなりそうではありまして。
おそらくは徐々に感情的になる人格は少なくなっていくのではなかろうかなという予想があるのではありまして、なぜならばそうならなければ社会の維持が難しくなると申しますか、破滅に近づいていく、決定的な破局に繋がるような行動が発生する確率が大きくなるわけで、必然的に文明とか社会が破綻せずに続くならば感情は抑制というか、平坦なものになっていかざるを得ないという論理ではございます。
ただ豊富な感情資源をもとにした文明という形もありかなしかというと有りよりではなかろうかという予想もまた同時にあるわけであり、どうにかして均衡を保つようになるかもしれないという望みというかそこはかとない願いもあるのではなかろうかなという予想もございます。
どうなるか分からないというところが今の所の評価ではあるのかなとは予想するわけではございますが、基本悪くなることを前提に対処をしていく必要があるのではなかろうかとは、予想するわけでございまして、資源は減少していくことが確定しているわけでありますから、そこはほぼ間違いない未来予想ではあります。
どこかで大きな技術的な発展やら発見がされなければ、転換がされなければ、未来においてどこかで行き詰まることはほぼ確定しているのではなかろうかなという予想はあるわけであり、それの確率が低いとしても考慮に入れておかないというのは、これは生き延びようとするならば怠慢である、と言わざるを得ない、という意見もおそらくはすでに、唱えられているのではなかろうかと予想するわけであり、ほぼそれは正しいのではと思考を重ねてみるわけであり。
であるならば、現状できることは何であるのかというと、その技術革新やら、資源の高効率消費化やら、社会制度の革新というか改善をするための時間をどうにかして作らなければならない、余裕を必要としなければならない、そしてその作り上げた余剰の資源によって、人を育てなければならない、もしくは人の成長を阻害しないようにしなければならないということではないかなとか、予想するわけであり、であるならば、基本争っている場合ではないのではという発想に立ちかえることになるわけで。
危機感が足りていないという面もあるかもしれませんが、今目の前にある危機にだけ夢中になってしまって対応している面もありそうではあり、ただそれは些細なこと、個人的なことであるけれども、その個人が作り出す何かが、必要になる可能性も否定できず、どうすることが正しいのか、効率的であるのかは、これまた一概には言えないわけでありまして。
当人にとって大切だというものを安易に第三者が切り捨てることが遠因となって、全体が救われないという可能性があるということは、意識しておいた方が良いのではなかろうかという予想を記述して、おしまいです。
「救いとは何かと問いかけ続けることが大事ではありますね」
「子孫を残すためのシステムに男女が必要無くなれば自然に解決しそうです」
「一方的な押し付けで救いを処理するのはダメでしょうな”旦那様”
出産育児が楽になれば確かにそうでしょう”奥様”」




