2206_くるくるまわる、天か地か?
天動説は否定されているわけではあります、地動説こそが正しいというまあ、古い話題ではございますが、意外にそれに気がついていないというか、気にしていない方々も多そうではありまして、それはまあ、世界が狭いというよりは、狭くても気にならないという性質なのであろうかなとか思うわけで、余計なことに資源を割かないのは生き物としては正しいのかもしれないと、思考を走らせつつ始まる今日のゴブリンでございます。
余計なことしかしないのが幼児というものであるとかなんとかいやまあ、本人にとっては本題であるのであろうなぁとは予想できるわけではございますが。今日も元気可愛いですな。
生き残るために生存するために必要なことが多すぎるのであるならばそれ以外はかなり余計なものであるというわけではありまして、つまるところ余裕がなければ文化やら化学やらは発展しないということではあるのかなとか、いつも動いていなければ何かをしていなければ生きいけなということはそれ以外ができないということであるので。
しかし思考そのものは身体を休めている時にできてしまうわけであり、そこで得られた発想を実践してみるのは作業の合間というか同時にできるものであり、改善することが可能になる、のかもしれず、つまるところ休みがあるならば、発展は自然とされるわけであり、考えることができるようになるなら、これはまあ、先に進むことはそれほど不自然ではない、先か後かはわからないわけではございますが。
記憶し、時系列に並べられて、因果関係だけではなくその筋道を抽象化して取り出して利用することができる脳みそが育った時点で、文明やら文化やらが発生する余地が生まれることになるということではあるのかなとか予想するわけでございまして、さらにはそれを下支えすることのできる言語の登場がそれを加速させていったのではなかろうかなと予想するわけであり。
ではその能力はどのようにして得られたのかというならば、結構偶然に左右されるものであったのではなかろうかなとか、幾多の試行があったがゆえにたどり着いた生き物であるならば、それは母集団が必要数に達していたが故の必然でもあったのではなかろうかとか想像するわけであり。
多様性というものではあるのかなと、つまるところいくつもの生き物が存在しうる環境であったがゆえに、そこにたどり着いたものがいたということであろうかなと、情報を共有する、もしくは反射し合う、受けわたすことができる、それを複雑化することが可能になるような、肉体的な特徴を得られた、それらはまさしく凄まじい偶然ではあるものの、そこに至るまで、無数に繰り返された結果であったのではあるかなと。
この環境に連なる歴史以外のも似たようなことを繰り返しているのではなかろうかというか、実際にしているのであろうかなと、母集団はそう考えるのであるならば、無数というか無限に近く、それだけの試みがあるならば、そうであるならば、いずれどこかでそこに達するであろうということがわかり、そうして達した結果がここなのであるかなという夢想が捗るわけであり。
奇跡ではないのであろうかなと、必然的にどこかに存在しうる可能性でしかなく、特別なものではないけれども、希少なものではあるのかなとかそのような感想が浮かんでくるわけであり、それを大事にするのは悪いことではないというか、そもそもそれを粗雑に扱うような意識が多勢を占めるならば、それは現出していないし、保たれてもいないわけであり、必然的に存在すると言ってもよろしいのではないであろうかなと。
結果から判断して評価するしかないわけであるし、そもそも評価の必要があるのかどうかも分からないのであるけれどもそうしたいと、いう欲求が生まれたならばそれはまた自然ではあるのかな、いやまあ、止めることができない思いというのは果たして自我なのであるかどうかという論点がついでに生えてきたりして面白いですな。おしまいです。
「神様が全部作ってくれたというのは楽をするための方便ではありますね」
「無限に試せるなら、何事もどこかでは成されているわけです」
「資源の浪費を防ぐやり口ではありますな”旦那様”
並行世界の概念とかも関わりそうではありますな”奥様”」




