2196_日が昇って沈んでいるのではなく大地ぐるぐる。
天動説は否定されているわけではあるけれども、頑なに、まだ大地の方が世界の中心であるということを信じている方々がいるらしいです。いやまあ、実際の姿がどうなっているのか実感できない、観測できない、客観的にみることができないということは確かではあり、実のところそういう信念であったとしても、実生活に問題が生じるのかというと割とどうにかなってしまうところがなんとも、対応が難しいか、距離を置くだけでいいのではという、後回し案件になってしまう可能性が高まるのであろうなぁと。基本面倒臭いことはやりたくないということではあるのかなとか、ぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでござます。
自分の信じる道を行くというは分からなくもないのですが、そっちは行き止まりではありますよ?地図を埋めるという意味合いでは正しいのでしょうかね?今日も元気可愛いですな。
正しい何かが現実にあるというのにそれを認めることをよしとしない、と言いますか、認める必要がないという立場の方々というのは実際におられるわけでございまして、だってそうなのだもの、私はこちらの方が好きだもの、信じているもの、後のことはまやかしだもの、とか、主観で生きているような人格はそれなりに存在するようでございまして、これを説得することは無理であるかなとか、早々に匙を投げる案件ではあるわけで。
正しいか正しくないかではなく、信じているが信じていないかということであり、それは自分を作り上げている土台にしてしまっているが故に、揺るがないというか、客観的な判断を放棄しているわけであり、思考を停止しているわけであり、省力な生き方でもあるわけで、余計なことを考えないで、難しいことを考えないで、ただただ目の前のできることをやっていくような性格であるのかなとか想像するわけであり、楽な生き方であり、生物としては実は正しいのではなかろうかなとか予想するわけであり。
余計なことをせずにただただ労働に励むような都合の良い人格であるのではなかろうかなとかいやまあ、多方面に喧嘩を売るように自説を押しつけるというのは、かなり効率の悪い生き方ではあるのかとか、反論が浮かんでくるわけではあるのであるけれども真実を追求しない、それ以上の考察をしないという意味合いでは、脳みそ資源、思考資源を節約しているといえなくもなく、なるほど、熱量を絞ることができているのではなかろうかなとか一定の理解が得られそうではあり。
では何に熱量を資源を思考資源を費やしているのかというと、いかに幸せに生きることができるのか、自己鍛錬というこか、自己愛というか、利己的なものにそれを注ぎ込んでいる、のかもしれず、いやまあ、助け合いとか、献身的な行動とかもする人がいますが、それは結局のところそうすることで自分が気持ちよくなるからであり、わがままにしているだけという見方もできるわけであり。
思考の流れが違っているわけではあるのであろうかなとかそれは経験とか学習とかの結果であるのであろうとは思うわけであり、それほど珍しいものでもなく、大体の表現では個性と言っても良いのではないかという範疇ではあるものの、奇妙なこだわりがあったりすると、対話が難しくなるという難点が生じる可能性が高いわけであり、そこの見極めが上手にできるかどうかが、交渉ごとに対する、技術の高低を示すことになる、のかもしれず。
信条なのであるからして、そこを安易に犯してはいけないという配慮が必要ではあるのかなとか、いや、真実を知らないというか、学習をその方面で進ませないということは、哀れに感じる可能性もあるわけであり、酷くかわいそうな生き方をしているのではなかろうかという、感想を持つことで、綺麗に切り捨てることができる可能性がありそうではあり。
であるならば、距離をとることが大切になるのであろうかなとか、律儀にただそうとするのではなく、誘導して、利用するくらいの感覚で付き合うべきであろうと予想するわけではございますが、それはそれとして、どこか致命的な瞬間に足を引っ張りそうではあるので、その辺りは注意が必要なのであろうかなとも思考するわけであり、まあ、面倒臭いことは間違いないのであるかな?こちらも大概そうであると認識していると、お互い様であり、腹も立たない、かもしれず?おしまいです。
「神様が法則を断言してしまったので問題が発生するのですよね」
「文言をアプデしてほしいものではありますね、神様」
「理屈をはっきりとつけなければ良かったのですがね”旦那様”
間違いを認める神様とか親しみやすい気がしますな”奥様”」




