2174_うとうと、とうとう、いつかやる。
いつかこんなことになると思っていたならば対策を取るべきだったのではなかろうかなとか、終わった後ならばなんとでも言えるという気がしなくもなく、今思えばあの時、もう少しなんとかしておいたならばというような後悔は、これは常に発生するようなものであり、健全な思考をしているとも言えるのではなかろうかとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
やってしまった後に頭を抱えることはよくありますよね、いいですよ、次はもっとよく考えて行動しましょう。徐々に上手になっていく、とよろしいですね。今日も元気可愛いですな。
物事は結果から遡らなければ原因がはっきりしなかったり、要因が判明しなかったり、介入の瞬間が読めなかったりするわけでありますから、なぜならば多分に運の要素が絡んでくることと、情報が足りていないからであり、また必要十分な情報が得られることは稀であるのであるから、必ず後悔はするのでありまして。
なので、落ち込んでいく必要はなく、そうれはそうだろうな、次はもう少し良くなると良いのでは、いやここは運次第なのでどうしようもないのか、工夫次第で確率を上げることはできるのではなかろうか、そもそも構造的な問題が判明しているなとか考察を深める方が建設的ではあるわけであり。
それでもそれでは反省の色がないという評価を受けてしまうのであろうかなとか、これはまあ表現の仕方の問題であり、問題解決能力には直結していないということを理解してもらわなければならないことなのであるかなとか、いやまあ、感情の問題であるということを大事にする風潮があることは確かであり、騒動の大元もそれであることが多いのであるという認識は、わからなくもなく。
何度か話題にあげたわけではあるけれども感情というものは生き物がその生存確率を上げるための脳みそが作り上げた仕組みであり、瞬発力のある反応を導き出すための単純に速さを重視した機構であるわけであり、環境が、行動の影響が複雑になってきた昨今、時流には合いにくい構造ではある、わけであり、できればあまり重視しない方が良いのではないかという場合が多い要因ではあるわけで。
人的損失が数で表現されることに忌避感を感じているようなものであるのかなとか、少数の犠牲で大多数を助けることができるのであるならば、それを良しとするような感覚と、その少数を犠牲にするくらいなら、広く多くののちに出てくる当然の犠牲を看過してもよしとする感覚とかで表されたりするのであろうかな?とか。
どちらが正しいのかというとそれはもう、その場の状況やら環境やら歴史的経緯やらそこまでいくまでの経緯やらが、評価に関わってくるとは思うわけではございますが、おおむね少数が資源として消費されることになる、ように社会は動いている可能性が高いのであろうかなとか、それを納得するかどうかは別であるわけでございますが、ここで感情的にはそうはできないという枷が発生するのであろうかとか。
安易に人的資源の消費を促してはいけないのではなかろうかという忌避感があったりするのであろうかなとか、それは可能性の問題であり、いなくなるはずのものが残すはずのものがかなりの運に左右されるものであり、結果として致命的な損害を全体に与える可能性があるというという、そこはかとない不安感と共にある予想が、感情という名前を借りて、効率一本槍の危険性をとどめている、可能性もあるのではなかろうかなとか、ぼんやり想像するわけであり。
そこのところを理性やら倫理やら、純すいに未来を見通す予測やら予感やら予知やらに近い知性で置き換えることができないかぎり、感情は無くさない方が良いのではなかろうかなと、今最高の効率で世の中を回すことができても未来においてそれがそのまま環境に適応できるかどうかがわからないのであるから、多様性を存続させるためにも、最適解を選ばない方が良い、場合もあるということではなかろうかという話であり。
要は、どうなるのか予想がつかないのであるならば、自分の心に正直になることもそれほど悪くないのではないか?という、まあ、ある意味悪い神様の唆しのような台詞が浮かんだところで、おしまいです。
「汝のしたいようになせ、とかは定番ですね」
「私は好きに生きた、みんなもそうすれば良い、とかも魅力的です」
「心が弱いので大体邪悪的になりますな人間、”旦那様”
それで回る構造を作るのは楽しそうではありますな”奥様”」




