2171_山あり谷あり山折谷折り骨折り損草臥待ちぼうけ。
大山鳴動して鼠一匹とかなんとか言ったりするわけではございますが、その鼠がとんでもないものであったりする場合もあるので、あながち悲観にくれる必要はないのではなかろうかとか連想するわけであり、もしくは何もなかったという結果やら成果が得られたという前向きな意見もありそうではあり、いやまあ、費用対効果に合わないという話ではあるのかなとか、そういう残念さはあるのではありますが、なんの話ですかね、無駄話です、こんにちはゴブリンです、お元気ですか?私は、無駄にならない程度に元気です。
大騒ぎしてなんのことだか分からなくなってきていますが、本人にとっては大切な何かであるのでしょうな。今日も元気可愛いですな。
立場やら身分やら見方によって成果がどう得られるのかはこれはまあそれぞれであることは間違いなく、一方には価値がなくとももう一方にはあるということは往々にしてあり、決めつけて、一概に判断してしまうと、大局を見誤ることがある、のかも知れず、いやまあ、深く読みすぎて自縄自縛に陥ってしまうこともまたよくあることかも知れず。
考えすぎてもいけなくてまた考えが足らなくてもいけなくて、まさに適当なところで丁度いい塩梅を感じ取らなければならず、そこに感覚を研ぎ澄まさせてみても実のところ感覚頼りであることはよろしくなく客観的に数字で表すことができるように工夫をするべきであり、そのためには正しい計算方法を知らなければならず、まだ誰も見つけていなければ、作り出さなければならないわけでもございまして。
その見方が、測り方が、本当に正しいと言えるのか、必要とする要素を抜き出してくれるのか、もしくは十分に足りているのか、もしくは余分なものが入っていないのか?そもそもそれは観測が正確にできているのかとか、迷う部分は多々あるのであろうかなとか思考するわけであり、それをどうにかして、思考やら試行やらを積み重ねてくることで対応してきた、のであろうかな、と想像するわけでございまして。
であるならばその歴史を蔑ろにするようなことは控えるべきではあるはずであるのでありますが、古いものには価値がないという無神経な発想もなくはなく、むしろやや多いように観測できるわけではありますが、でなければ温故知新とかなどという言葉が生まれないわけではあり。
注意しておかなければ古い知識は切り捨てられることになるのであろうかなとか、一見無駄にしか見えないようなものが回り回って役に立つことは十分あり得るわけであり、安易に途絶えさせてはいけないのではなかろうかという思考が生まれるはずなのでありますが、そもそも、知恵とか知識とかが、社会の害悪になるという発想も、これまた普通に発生してしまうこともあり、歴史的に存在する控えめに言って、汚点である可能性が高い政策ではあるわけで。
思考を続けることをやめることはできないのであるならばそれをある程度制御するべきであるというか行動につなげる前に、倫理的な判断をかますべきではあるという発想ではあるものの、その倫理的な判断というものも相対的なものであり、長い目で見ると邪魔になるというか、害悪である、場合も多々ありそうであり。
純粋に客観的な視点だけで判断をするべきであるという発想もそれほど珍しいものではないけれどもそれはおそらく実行することは不可能に近く、なぜならば、判断の基準となる情報に必ず左右されることになるからであり、独立した判断機構はあり得ないわけであり、であるならばできるだけ、それに近づけることが必要になるのではなかろうかという話に繋がるわけではあるものの、実行は難しいものがあり。
逆に無数の情報を手に入れることによる平均化というか限界化を促してしまうやり口があるのではなかろうかなとか、あらゆる判断基準を網羅してしまえば、結果的に中立的な立場にそれは立てるのではなかろうか、という発想ではあり、そしてその対局に位置するのは、全く情報を入れずに判断するというやり口であり、運に委ねるやり口であり、実のところ、それほど判断基準に差はないのではなかろうかという、思考の流れもある。
実のところこの運による判断基準というものは、現実世界では普通にあるものであるのではなかろうかなとか、ふと思い至ったあたりで、おしまいです。
「神様はサイコロを振らないなら、人間は振るんですよね」
「全ての情報を持っているものと全く持っていないものとの振る舞いの差は?」
「神様がいないことにしてしまった方が良い場合もありそうではありますな”旦那様”
超長期的に見ればそれほど差異はない、のでは?”奥様”」




