2169_閉じる封じる蓋をする棚上げるぼた餅。
先送りすることは大体全ての本質であるというと乱暴ではあるものの、まあそれほど間違っていないように思えるのは最後には何もなくなってしまうのであるからそれを考えないようにすると言うところに思考が落ち着くからであるのではなかろうかなとかぼんやりと想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
深いところまで考えた上でそれを無視する気にしなくするのと、そもそも深くまで考えないのではかなりの差が出るのでしょうか、いやまあ、見た目変わらなければどちらでもよいと言う立場もある意味正解ではあるのでしょう、今日も元気可愛いですな。
どうせ最後にはなくなってしまうのであるのであるならば、今頑張ることに何か意味があるのであろうかとか考え出すと病んでいる証拠であるとかなんとか、いやまあ真っ当な思考ではありますし、そこを考えずに思考停止している方が実のところ欠陥がある可能性すらありそうではあり。
普段はそのようなことは考えなくとも深く思考していくとそこに辿り着くのはそれほど珍しいことではなくではそこからどうやって復帰するのであろうかなと言うと、別に戻ってこなくともよく、ただ身体は生きることを欲してしまうので、それに従ってしまうことが多いと言う話になる、のかもしれず。
基本獣と同じであるわけであり肉体の快楽に引きずられていくことは間違いなく、正しいことではありまして、そこで無理に乖離させるとそれこそ不健康というか不自然ではあるかなとか無理が生じそうではございまして、周囲にも悪影響を及ぼしかねないのではなかろうかなとか。
高尚であることを誇ることはあまりやらない方が良いということであり、それは多少は比べればましであるくらいの認識で、根っこのことろはそれほど差異はないということを認識した上で、利用するくらいがよろしいのではなかろうかなとか、僅かな隙間で高低差を自慢してもまあ、滑稽ではあるかという話ではあり、いや、客観的に見ていることを声高に宣言するとそれはそれで、爪弾きにはされるものであるか。
自分を含めてそれほど凄いものではないということを認識しておいた方が楽にはなるわけであり、才能とか資質とかもしくは手に入れた何がしかの技術とか、栄誉栄達、知性発想、それらは、基本、運が良かったからこそ、偶然手に入ったものであり、そもそも自分の制御しうるものではない、とかなんとか、謙虚というか、虚空に何かを求めないような感覚で、使用するべき要素ではある、のではなかろうかなとか。
いやまあ、そこに付随する悦楽を否定されることが不快であるということはこれまた分かるわけではあり、多くの資源を費やして手に入れたものの価値を認めてもらえないことは、悲しいという感情を抱かせることも、想像はできるわけであり、さらにいうならばそれに対して尊敬の念を抱くことを止めることもないわけではあるけれども、論理的に、客観的に、評価するならば、まあ、運が良かった、という話に辿り着いてしまうという、身も蓋もなさが見えてくるという。
嫉妬とかの感情で、貶めようとするからそのような発想に至るのであるという話ではあるのかんというと、それもあるのであろうかなと、いやまあ、その感情を抱くこともまた止められないということではあるかという話ではあり、それを根拠にして、貶めたくなるという流れを迎える可能性も、これまた自らの制御が難しいというか、沸き起こってしまって行動してしまったなら、止めることができなかったということであり。
そのように理不尽に、邪魔をされないという点があったということもまた運が良かったとか言えそうではあり、そこにも注意をしていたのであるよという努力を無視するのかというと、確率は上がったので効果はあったけれども、奢ることはなく、それは運が絡んでいたのであるよと、認めておいた方が、のちに楽になるのではなかろうかという、助言ではあり、基本ありがた迷惑の類ではあるか。
素直に喜ばせてくださいということを否定する話ではなく、いやまあ、運が良かったねと言われたくらいで、喜びに水を刺されるくらいのそれであったのでは?とか言われると、やはりこれはまあ、腹が立つのであろうなぁとは、予想できるので、皆遠慮して指摘しないのであろうかな、優しいのであろうなぁ、と笑いつつおしまいです。
「どれだけ素直になれるかを教義にした宗教というのはありそうですね」
「喜ぶ時には独りでやることをお勧めしますね」
「幸せの一つの形態ではありますな”旦那様”
誰かに祝ってもらおうというのが傲慢であるとかですかな”奥様”」




