2163_ジンジンする神神しい、棒棒鶏、跳躍。
足に紐をつけて高所から飛び降りることがなぜに成人儀礼になるうるのかという話はありそうではありますが、洒落か冗談で始まったそれが儀式になることは結構ありそうではあるかなとか、同調圧力というかそろそろやめませんかという発言が封じられる風潮というものはどこにでもあるのではなかろうか、いやまあ実質無害なものに変質していくようにはなりそうではあり、それを形骸化というならばそうなのでありましょうか、ようは賢くなったということではなかろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
その変化は良いものではないかなと思うのですよ、いや子供じゃなくなってしまったという嘆き方はおかしいような気もしますし、そのままではいられないということが知れたのですから成長でしょう。こだわりが一つなくなったということかも知れませんが。今日も元気可愛いですな。
守らなければならないものの理屈づけはきちんとしておかなければならず、それの説明を周囲にすることもまた続けておかなければならないとは思うわけであり、それに対する反論を一方的に封じるのもまた変ではあり、おかしなことであるという認識を広く求めさせるべきではなかろうかなとかは思うわけであり。
理屈っぽいという話ではあるのであろうかなとは思うわけではございますが、そこに理屈を抜かしてしまうとそれはそれで空虚なものになってしまうのではなかろうかなという予想もまたできるわけでございまして、なぜそうするのかと考えることはそれほど悪いことではないのではなかろうかと。
信心ぶかいとかその辺りの話題に関わってくるとまたややこしいわけでございまして、信仰は理屈ではなく情熱というか、趣味の範囲ではありますので、ある意味思い込みの範疇であり、感情の支配するところではあるわけで、それを作り上げた方ですら半ば、理屈が通っていないというか論理的ではない場合も多く、まあ、賢くはないとは評価できるわけであり。
馬鹿にしているのかというと、正直なところその面も少なからずあり、知識が少ない状態で作り上げた様式をそのまま守ることに何の意味があるのであろうかとか、効率が悪そうではあるかなとか、全くの資源浪費に過ぎないのではなかろうかという意見が素直に出てきそうではあり、しかし建前も大事なのであろうなぁという納得もあり、口を濁すことになるのでありましょうか。
みんながやっているのであるからそれをするというのは実のところ納得のいく説明ではないのではありますが、そうすることによって余計な労力を払わなくて良いという説明であるならば理解はできるわけであり、ようは、悲しみやら哀悼やら、愛情やら、その手の感情を的確に表すことができる示しているという記号としての儀式が必要であったりするのであろうかなとか。
誰にも分かりやすく伝えることができるように様式を整えていったというものがそれなのであろうか、つまりは伝統であったり、慣習であったり、儀式であったりするのであろうなぁと、表現をどうするのかを考えるという資源を消費しないようにするための何かであるのであろうなぁという捉え方はできるわけであり。
ただその伝統を守るための資源消費をそれを守っていることいによる、資源の節約とどちらがより効率が良いのかというところは、見極める必要があるのではなかろうかなとか、いやまあ、そこを見極めるために使う労力も含めると、まあ、このままでいいのじゃないかなとか、流れてしまうことも多そうではございますが。
そこまでわかっていて、わかっていないものに合わせることが大人になるということではなかろうかとか賢いものがとる態度ではなかろうかとか思考が進むわけであり、いやまあ、つまりは、そのような伝統儀式をしているもの達の大半がそれを馬鹿らしいものであると思いつつ、表に出していない嘘つきである可能性が見えてくるわけであり、であるならば、それを外から観察してみると結構、面白い見せ物ではなかろうかという楽しみ方もできそうではあり。
逆にそのようなところを指摘してみて、感情を掻き乱しさせてその様を対応を観察して楽しむような、遊びもできそうではあり、意外と楽しめそうではあるかなとか、性質の悪い笑いと浮かべてみたりしながら、おしまいです。
「儀式に夢中になることは結構楽しいので邪魔はしない方が良いのでは?」
「数値化して費用対効果を示してみることは必要なお仕事ではありそうです」
「まじめなものを揶揄うのは楽しいという真理もありますな”旦那様”
感情を数値化、客観視できるようにできるかという話でもありますな”奥様”」




