2145_いほうじん、違法人、医方人、陣立、神棚。
神頼みを軟弱と言うならば宗教に関わるものは大なり小なりそうであるとか言い放つとそれは傲慢というか乱暴であるのであろうかなと、神様は心の中で軸にするというか芯にするというか、基準に置いておくには都合の良い存在ではあるけどもそれに縋り付くにはこう歪になりやすいということではあるのかなとか、向き合い方が問題になる記号ではあるかとか、ぼんやりと、想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
神様が見ていますので悪いことはしないようにしましょうね、は定番のしつけ言葉ではありますが、神様程度では何もできないのでは?とか、考えるようになるとあまり意味がなくなるのはありますね。今日も元気可愛いですな。
実在するかしないかの議論は基本不毛であり、益が得られないだけでなく不利益さえ生じるという場合が多いのではありますが、無駄話の種とするならばかなり優秀ではあり、使い古された題材ではあるわけでありまして、以前にも記述しましたが、全知全能の神様は定義上あり得ないという説が濃厚であるという、結論に辿り着きがちではあるわけではございますが、その過程が楽しいのである娯楽になるのであるという意見には、概ね賛成するわけでございまして。
いえまあ、真にそれが存在することを疑っていない方々に問答をするとややこしい事態に陥ることが多いと想像できるわけではありますので、時と場合と環境と、歴史的な流れを考慮する必要はあるわけではございますが、純すいに学問というか、思考するのであるならば、かなり興味深い物になるのではなかろうかなとか、いやまあ、今更何を議論するのですかというくらいには古臭い話題ではあるのもまた確かではありますが。
温故知新という言葉のございますので、そのような昔に議論された、疑問に思われた物を掘り返すと新しい知見を得られる可能性も十分あるわけでございまして、基本無駄にはならないと申しますか、そもそも無駄を楽しもうとするのであるならば、それが本筋となるのであろうかなとか。
現状に宗教やら信仰は、同調圧力による物であり、社会構造を円滑に強固にするための仕組みであるということはそれほど間違ってはおらず、ただそれを明らかに声高に宣言すること自体が、その役割と申しますか効力を減ずることになるので、されないという話ではあるのであろうかなと、わかってはいるのであるけれども、建前を大事にすることで、厄介ごとを回避しておく、ような感覚であるのでありましょうか?
逆にそれを言葉通りに受け止めて行動する方も少なくなく、そこに齟齬が生まれてしまうのであろうかなとか、それを発端としてというか切っ掛けにして、対人関係やら社会通念上のいざこざやらが生まれてしまい、余計な資源を消費してしまうのであろうかなとかは、予想できるわけであり、これはまあ、今までそうだったのだからこれかもそうであるべきである、というお話になる物であり、改革側としては改善しようとする側としては、問題がある思考の流れであるのであろうなぁと予想できるわけであり。
宗教と人の生死、尊厳が密接に関わりすぎているというか、そもそも、人を定義するために作成した枠組みがそれであるので、当たり前ではあるのでありますが、都合よく使おうとした道具に振り回されている感覚はありますが、そもそも意図的にそうしようとしたわけではなく、場当たり的に対応していった結果、その後に体裁を整えたので、最初から歪ではあるのではありまして。
人間を特別視しすぎている可能性もございますし、また一方でそうではないのですよという教えに揺れて戻る流れもあり、ただ、統治者側、管理者側であるならば、余計な思考に資源を割いてくれないように、持ち上げて特別であるだから許されるとかなんとか言っておいて、気持ちよく操りたいという願望も見え隠れするのであろうかなというい、予想もできるわけであり。
それはとどのつまり誤魔化されて騙されているのではあるけれども、それはそれとして安寧を保証されているというわけでもあり、あえて、自ら騙されにいってやってるんですよという立場に、大体の人が立つことができるならば、宗教というものはもう少し穏やかな物になるのであろうかなとか、いやまあ、都合よく解釈して欲望を果たすようなやり口もありますので、まあ、その人格というか社会次第なのであろうかなとか、使い方次第であるのであるなぁとか、ぼんやりと感想を述べておしまいです。
「思考を放棄しても良い時間があることは幸せに通じることもありますよ?」
「面倒臭いところは全て宗教に任せてしまうやり口は、まあ、ありますね」
「悩むことを止めたい時には便利だとは思います”旦那様”
あとは神様がいいようにやってくれるという無責任的なやり口はありますな”奥様”」




