2143_近接遠隔中庸?間合いを取る盗る。
適切な距離を取ることが対人関係の基本であるのではというお話を耳にするわけではございますが、このどう離れるのかくっつくのかという感覚は客観的にどう表せば良いのであろうかとなると意外と難しいのではなかろうかなという連想が出てくるわけでございますが、おそらくは、使用する言葉の量で押しはかることができるのではなかろうかとか予想するわけでございまして、文章量ですね、という発想から転がしていく感じの無駄話でございます。
無限に近く延々と話しかけられてくるので子供との距離は近くなる、と表して良いのではなかろうかなと、飽きないですよね。今日も元気可愛いですな。
一日単位くらいで考えるべきでありましょうか、使用する単語数で計測することができるのではなかろうかなとか、これが少ないという程度はどのくらいでありましょうか、全く無いのならこれはまあ、距離が最大限離れているということになる可能性が高いわけでありまして、ただ、物理的な距離とかがあるならばやむなしという感覚もございます。
身近にいる、生活空間を共有しているのに、発する単語が少ないということが距離をとっている感覚になるのであろうかなという予想がございまして。肉体がそばにあるのに単語を発しないという条件が重ならなければならないという感じでございましょうか?内容はこの際問わないことになるのでしょうかね?
肯定的か否定的な単語の選択であるかなしかは、実のところ対人関係の距離感には影響しないというか、好悪どちらかに振れているだけの話であり、総量としては関係ないということであろうかなとか、つまりは悪いか良いかではなくて、近いか遠いかという計測方法であるからとなるのかなと。
影響度の度合いという言い方をしても良いのではなかろうかなとか、それは必要か必要でないかに関わらず、雑音として受け入れられていく可能性もあるわけでありますが、無関心とは違い、何らかの反射や直感を刺激するようなものがあるのではなかろうかと予想するわけであり、となると。
背景音やら生活音やらになってしまうような言葉は多くとも数えられないということになるのでなかろうかという予想もできるわけではありますが、全くの無視ができるかというとそういうこともなく、騒音というか、思考を乱したり、発想を与えたりするものではあるのかなとか。
つまりはもはや内容は関係なくどれだけの単語数を発したのかそれが聞こえる範囲にどれだけ居たのかが対人関係の距離感を客観的にはかる指針になるのではなかろうかといささか乱暴に結論づけてみたりするわけではありますが、現実的に言葉の重みづけをするということは計測を難しくしすぎるのではなかろうかなと、予想はするわけであり。
では、その発する言葉は同量でなくてはならないのかというと、この場合はそうでもなく一方的に語りかけていくことでも対人関係の距離が近くなっていると言えるのではなかろうかなと、講師と聴衆の関係性のようなものであるかもしれず、一方的に親近感を持っている可能性はあるわけであるけれども、それもまた距離を示していると言えなくもなく。
その人物が、その人格がどのようなことを言いそうなのかを知ってしまう、脳みその中に擬似的に構築してしまえるようになると、実のところ、以後、その人物との距離を測ることは難しくなる可能性はあるのではないだろうか?相手は何も単語は発していないはずであるのに脳内でそれが再生されてしまうし続けてしまうわけであり、常に語られているというか単語が繰り返されてしまうわけであり、一方的に親しく感じてしまうことになる、のかもしれず。
妄想的に親近感を増してしまうということになりこれはこれで、別のところで問題を発生しそうなことになりかねないわけであり、いやまあ、対人関係の距離をどう取るのかという問題は常に発生しているので、それに含まれる、日常的に打開策が求められる事柄にすぎないのかもしれないけれども、ああなるほど、これが内なる声を聞け、とか言われるものになるのかな、違うかな?おしまいです。
「神様が語りかけてきたなら、それは妄想なので従うと危ないです」
「一日誰とも喋らないということはありますね」
「神様の言葉を代弁してはいけませんというのが基本ではありますね”旦那様”
研究職とかだと結構ありますね”奥様”」




