1576_砂漠、大都市、熱い、冷たい情。
適度に他人への関心が薄い方が居心地が良いのではなかろうかなとか、想像するわけでございますが、過度に干渉してくるような自称友人からは距離をとる方が幸福度合が高くなるのではなかろうななとか予想しつつ、ある意味善意で近寄ってくるからたちが悪いとも言えるのであろうななどと皮肉的な思考と捉えられるけれどもそれほど的外れではない意見を抱きつつ始まる今日のゴブリンでございます。
友人は選んだ方が良いかと思いますよ、少なくともこう認識の埒外から攻めてくるような輩は、数を絞った方がよろしいかと。今日も元気可愛いですな。
善行をなすことは快楽であるということであるのではなかろうかな、と、娯楽のひとつとしてのそれがあるのであろうなという予想ができるわけでございまして、気持ち良くなろうとしているときにそれを否定されるとそれは、悪感情を抱くことになるのであろうかなとは想像できるわけでございまして。
良かれと思ってやったことを否定される、拒否されるとそれは相手が悪いことになりますので、攻撃の矛先を向けることができるようになり、断罪もまた善行によるものであるわけでございますので、快楽につながるわけでございます、つまりはどう転んでも自分は楽しめるというこれまた性質の悪い連鎖となりえるわけでございまして。
対応手段としては距離をとるしかないという、いささか忸怩たる思いを抱くような展開になるわけでございますが、まともに相手をしているとさらに不利益を被ることになるのわけでございまして、どうしても避けられない相手にそれを押し付けることによって平穏を得るというやり口が必要になるのであろうかなとか、予想するわけでございます。
その気持ちを分析して指摘して、改善を促すことが社会全体をよりよくする手段の一つになりえるのではなかろうかという意見もあるわけでございますが、善意を向けられる立場の方々は基本弱い方が多いわけでございまして、それを成すほどの余裕がないことが往々にしてあるわけでございまして、これはまあ、過大な負荷をかけることになりかねなく、道徳的にも客観的に資源的に見ても、よろしくないわけでございます。現実的ではないとも言えそうでございます。
しかし、よそからそれは善意の押し売りであるとか、回り回って周囲が迷惑を被ることになるとか、論点がずれているのではとか、不具合が発生する恐れがあるとか、独善的であるとか、そのように意見を述べると、当事者でもないのに口を挟むのではありませんと、反論されるわけでございます。これは間違いで、余裕のある方でなければ客観的な指摘はできないわけでありまして、ある意味、良い岡目八目である場合が多いのではなかろうかなと、熟考の価値があるのではなかろうかと真摯に受け止める、意見である場合も少なからずあるのではなかろうかなとは予想できるわけでございます。
もっとも野次馬的に無責任な意見である場合もこれはまたあり得る話ではありますのでその辺りの見極めと申しますか、冷静に客観的に判断できる評価できる地盤を自ら作っておく必要はあるのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。この辺り、学習の方向性を決める要素にはなるのではなかろうかとか想像する次第。
感情を否定するわけではございませんが、それに振り回されることはこれは本意ではないのであろうかなとは、想像するわけでございます。ただ最終的にはと申しますか、未来的には、感情そのものの立ち位置はこれは大きく変化していくのではなかろうなとか、予想するわけでございます。薄くなるといいますか、意味合いが徐々に変化していくのではなかろうかとか。これは良くなるとか悪くなるとかではなくて、ただ単なる変容であることになる、かもしれないですね、と適当に放り投げておしまいです。
「変わらないではなく変化していることを気付かせない装置としての宗教ですかね」
「変わった瞬間はだいたい判明しますが慣れさせる役割を持つものが学習かな」
「どちらも意識の誘導という点で有用かと”旦那様””奥様”」




