1575_ぎるてぃ、否ぎるてぃ、誰が裁く?
法の元に平等であるということでありますが法の平等性は誰が保証してくれるのでありましょうか、というような素朴な疑問はそれはその構造の構成する要素が互いに保証し合うのであろうなという返事となるのではなかろうかなとかぼんやり想像するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
触れてはいません、がそれは搔い潜っっているというのではないでしょうか?ええ、こちらは危ないので入らないでくださいね。今日も元気可愛いですな。
社会で平穏に過ごしていくための決まりごとを互いに守っていきましょうねという思惑を明文化したものが法律であるのであろうなと、つまりはそれに従って生きていくならばかなりの確率で不幸にはならない、のではなかろうかなと期待できるものであるわけでございまして、いわゆる悪辣な行為を許さないというような、もしくは生きる権利を脅かされないようにするための仕組みであるのであろうかなとか、予想するわけでございます。
でありますので、基本それを犯してしまった場合に対して罰を与えることは手遅れであった場合の対処に過ぎないわけでございましして、あらかじめそのような決まりごとがありますよと周知徹底することを怠った結果ではなかろうかと言う見方もできるわけでございます。これは学習の敗北と申しますか、叡智が見当たらないということであるのであろうかなとか連想するわけでございます。
違法案件が発生した場合にそれを大きく取り上げて、どこがどう間違っていたのかを明らかにして、例示することはこれは、対象法律の紹介にはうってつけであるのであろうかなとか予想できるわけでございますが、そもそも最初の一手には間に合っていないという厳しさがあるのであろうかなとも見てとてるわけでございます。
誰も教えてはくれなかった、という言い方は、ある意味正しいわけでございまして、道徳という形で共通認識を知らせるだけでは、それは学習内容が不十分であり、それに合わせて、どのような法律が対応しているのかを知らせるべきではなかろうかなとか想像するわけでございます。
それはあまりにも論理的すぎて人としての感情を無視しているのではなかろうかと言う意見もありそうではありますが、そもそも感情に任せて行動することを抑制するための法律であるわけでありますので、その感覚は正しいわけであり、その点を踏まえて説明する必要があるのではなかろうかなと、つまるところ人間の衝動を肯定しない立場にあるものが法であると言えるわけでございますれば。
感情自体を否定するものではないところが大事なところなのであるかなとは予想するわけでございます。基本、優しさとか、怒りとか、あるいは正義感とか、罪悪感かもしれませんが、そのような気持ちが元になった法律もこれはあるのであろうなと、むしろそれが中心であったのではなかろうかなとか、予想できるわけでございます。
法律が抑制しているものは、感情の爆発といいますか、脊髄反射で行動してしまう脳みそをほとんど使用しないで、やってしまう何かでありまして、思いとどまらせるための仕組みである、のではなかろうかなと。魔がさすことを防ぐための仕組みとしてそれがあるのではなかろうかなと、予想するわけでございます。
直感を否定するという言い方もできそうでございます。自分本位であることを再確認するための指標と言える、かもしれないわけでございまして、客観的に世界を見るための道具とも言えそうではあります。ただまあ、管理者に都合の良いそれを作成する場合も少なくなかった歴史もありますし、現状でも不具合があることは確かでありますので、修正は常に行われるべきではあるのであろうかなとか、それほど珍しい意見でもないところでおしまいです。
「神様が定めたのでその法は間違いないです、などという論法は便利です」
「感情を排して論理的に進められる法律談義は冗談に見えることがありますね」
「間違っているのは人間の方であるという言い方は心地よいこともありますな”旦那様”
厳密に解釈するとギャグにしか聞こえない展開はありそうですな”奥様”」




