1554_闘鳩、きゃめる混。
猛禽類どうしの空中戦はあり得るのであろうかなとか、普通に狩りとしての軌道はありそうではあるけれども、一瞬で勝敗が決定しそうではあるかなとか、見世物には向かないだろうなとか、構造が華奢すぎるので再戦やら連戦は難しいであろうかなとか、そもそも戦闘範囲を限定させることは難しいだろうなとか、なるほどだから飛べない鳥で戦わせるのであろうかなとか、ぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
子育ても、その成果を競い合わせるというような側面があるかもしれませんね、いやうちの子が一番ではあるわけでございますが。今日も元気可愛いですな。
育成はそれだけで趣味的要素があるということはこれはそれほど間違った認識ではなく、対処が生き物であるならば現実に近いと申しますか、現実であるのであろうかなとか、それを模して遊戯になっているような仮想現実っぽいやり口で楽しんでいる方も多いのであろうかなとか、ぼんやりと連想するわけでございますが、結構やり込んでいる方も多いのであろうなとか想像するわけでございます。
楽しいのでありましょうね、手をかければかけただけ、結果が返ってくるかもしれないという期待だけでも魅力的に映るわけでございますれば、なるほど、達成感があるとか、肯定感があるとか、自身の影響力を認識できるという楽しみがある、のであろうかなとか、支配欲のようなものもあるのであろうかなとか、想像するわけでございます。
誰々は私が育てたという台詞は、生きていく上で一回くらいは言ってみたいそれであるのではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、そもそもそれができるのであるならば、自分を育てればよろしいのではないでしょうかという根本的な、聞いてはいけないような意見もありそうなものでありまして。
自分に才能がないので他を育てるというと、これはまた無責任と申しますか、やっても見ないうちに何を言っているのかとか責められる案件であったりするわけでございますが、それはそれで指摘する方も何らかの責任を持っているわけではなく、ただの意見でしかないわけでござまして、決定権はいつでも主体的に動く方にある、ということを認識しておく必要があるのであろうかなとか、想像するわけでございます。
すでに試した後であったので、育成に力を入れているのである、という反論は、いやもっと頑張ればどうにかなるのではなかろうかという、これまた希望的観測と申しましょうか、安易な反射的な発想やら発言やらで、容易に再反論が行われる、ように観察できるわけでございまして、ようは先のことは誰にもわからないけれど、さもわかったように言ってしまう症候群というものが存在するのであろうかなとか、予想するわけでございます。
これまでもそうであったのであるから、これからもそうであるべきであるという認識もまた変化を阻害しているのであろうかなとか予想するわけでございまして、どうなのでありましょうかね、そもそも変わるべきではないものもあるかもしれませんが、それを外的な要因のみで阻害するやり口は、これは問題がある、とする方も多いかもしれないと予想するわけでございます。
ただ、そもそも内定要因が本当に存在するのであろうかという根本的な問いが生まれてきたりするわけでございまして、基本疑問を追い求めていくと、ある時点で動けなくなる回答が得られずに、袋小路にはまる、ことになることも多そうでございまして、どこかで思考を停止させる方が効率的である場合も多いように観察されるわけでござまして。
けれども、効率だけを重視した生き方はそれはそれでつまらないものがないかという意見にも一定の価値があるのではとか、想像するに至り、まあ、適当にやるしかないのであろうかななどとこれまた無責任に放り出します、いや他人事ですから、おしまい。
「神様の試練でありますと言っておけば大体オーケーです」
「人を育てることは難しいのです、人に限りませんが」
「その点宗教は割り切っているので楽ですな”旦那様”
影響は与えられるかもしれない、くらいの心持ちで丁度よさそうですな”奥様”」




