1548_eye覚えているなら記憶。
衝動的な、後先を考えていない、感情的な、行動を美化して懐古する老人と言いますか歴史を刻んできた方々がおられるように観察できるわけでございまして、昔は良かったというような言葉を選ぶような人格は、それほど良い思い出は持っていないのではなかろうか、少なくとも記憶は改変していることが多いのではなかろうかなとか想像するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
幼少期にわがままが許されていたという記憶もまた、改変されている場合があるかもしれないわけでございますな。いいえ結構そのままではありますよ?今日も元気可愛いですな。
思い出すという行為は快楽に直結している場合がありますので、より良い刺激を求めてその内容を変化させていくのではなかろうかなというような予想がございます。であるならばそれは記録としては役に立たないのではなかろうかという予想もまた可能であるわけでございまして、おおむね間違ってはいないのではという想像がございます。
良いように変化させることができなかった記憶は、不利益として残ってしまう可能性が高いわけでございますので、どうにかして忘れようとする働きが作用するのではなかろうかなとかも予想するわけでございまして、それができない人格であったならば、できる人格に交代することも考慮のうちに入るのではないかなとも想像できるわけでございます。
新しい自分になるというほどのものではないのでありますが、より客観視できるような人格を用意して、冷静に記憶を捜査することが可能になるようにするやり口はそれほど珍しいものではなく、少しの訓練と申しますか、練習のようなもので誰にでもできるのではなかろうかなとか、予想するわけでございまして。
ただ皆が皆それをやることを選択するわけではなく、さらにはその人格を創出したところで、行動に移す段階で、別の感情的な、主体的なそれが前面に出てしまうのであれば、短慮と呼ばれるようなそれになることは避けらないわけでございまして、しかしその行為を見せることそのものが人間性を謳歌するような流れになることもあり、認められることもあるわけで、ややこしいと言いますか、読めないところがございます。
反省することは本当に必要な行為であるのかと申しますと、強い感情と結びついた記憶は薄れにくい、つまりは、より良い方法をとるための指針として使いやすいのでありますので、そのために何らかの情動と結びつけるためのそれとしては一定の価値が見受けられる、可能性が高いのではと、想像できるわえけでございます。
ただその感情と申しますか、省みるさまを提示する必要があるのかどうかとなりますと、それはもう社会性の問題と申しますか、対人関係を円滑にするための行為になってくるわけでございまして、実を言うと遠回りであり、非効率である、と断じることができるのではなかろうかと予想できるわけでございます。
現状では、それらの感情を抜きにして物事を進めることが難しいからそのように振舞っているだけであり、月日を重ねるごとにそれは不要なものであるという認識が広まっていき、常識となっていき、前提となっていき、衝動的に不利益を生じさせるような行為そのものが消滅していく、のではなかろうかなとは予想できるわけでございます。
怒りが必要でなくなる世界はさらに言うならば、喜びやら悲しみやら楽しみやらそれらの強い感情がなくなっていくそれでもあるかもしれないわけでございまして、それはそれでつまらないであろうかなと言う感想は、今の常識に当てはめているからでありまして、そこを含めて価値観が徐々に変化していくのであろうかなと、そして、気がつかないままであるならば、それは成功したということであろうかなとか、ぼんやり想像しながら、おしまいです。
「心穏やかに見つめ直すためのギミックとして神様を利用しましょう」
「強い感情を人格に向けることは避けるべきでしょうね」
「利用するという言葉を使用する段階だとそれはできないかもしれませんな”旦那様”
自分自身に向けても不健全になることはありそうですな”奥様”」




