1546_毛のある生き物なければのけ者。
頭髪の薄いものに人権はないとか冗談でも言ってはいけません、何故ならば、本人の意図しない制御できない事象の責任をその当人に求めてはいけないからであります、とかなんとかの論理がございますが、どうしようもないことに責任を求めることはよろしくないことであるというならば、結構世の中無責任にできているのではなかろうかなとか、ひねくれた連想をするあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
幼子であるから、責任はないということでございます。けれども、それは監督する方に移っているだけのことでありますので、こちらで、躾ることになります。叱るとはそういうことなのですね。今日も元気可愛いですな。
区別と差別は違うものであるという言い方もあるわけでございまして、どこまでは不当な扱いに該当するのかの線引きは、難しいところもありそうでございます。言い方は悪いかもしれませんが、発言が大きい方が勝っているという場合もありそうな情景でございまして、弁論巧みな方が強いという事実はどこかにありそうでございます。
それは詭弁ではなかろうか、しかしその中に真実っぽいものが含まれているならば、一考の余地がある、ということになりまして、一つ一つ対応しなければならなくなりますが、人的な時間的な資源は有限でありますので、優先順位をつけて処理していかなければならない現実もございます。
その順位をつける場面で、恣意的なものが混じってくるのではなかろうかなりますが、これはまあ、人間が感情に絡んで行動するのであるから、ある程度は仕方がないということではありそうでございまして、そこを厳格に判断していくことによる全体の遅延の方が深刻な状態を招きそうであるという判断も妥当な場合がございます。
実際の環境やら状況やらを見定めて行動しなければならないということには変わりがなく、判断基準は刻一刻と変化して行ってしまっているわけでございますので、ある程度冗長性をもたせていかなければ早々に破綻する構造であることは、これはまあ確からしいのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
焦る必要はなく、むしろ害悪となる場合が多く、しかし急がなければさらに破綻していくという、速さと正確さが同時に必要になるのではなかろうかという、幻想が組織を襲ったりするわけでございますが、そうではなくそれは間違いであることも多く、走りながら調整をしていく方が結果としてうまくいく、こともあったりするわけでございまして、結果論であるのではという反論に対しては、結果が出なければ評価もできない、と、いうものがございましょうか?
それは本当に無駄であったのかどうかという評価自体必要なものであった可能性もあり、積み重ねる実績の一つになるのではなかろうかと、成功を生むためには失敗を重ねるしかないという事実もあるわけでございますれば、対応としては罰ではなく、観察であり考察であり、改良などであるのであろうなと、予想するわけでございます。
距離をとる方が良い場合もありますし、次はうまくいく可能性があるので、近づいたままでいる場合もあります。その人格を隔離した方がよろしいという判断があったなら、それを試してみるのも悪くなく、逆もまた然りでございます。明確にこうすれば失敗するのではなかろうかという事例が集まることもまた一つの成果であるわけでございまして、それに耐えられる構造を構築する必要がある、のかもしれないとか予想するわけでございます。
結果として耐えられてきたから、その構造が維持されてきたとも言えるわけでございまして、原因と結果が逆転する観察方向もまた大切な発想なのであろうかなとか、突散らかして連想しつつ、おしまいです。
「そもそものっけから神様をのけ者にしているわけでありまして」
「消費する対象に同情が行き過ぎると、それはそれで歪みますね」
「仲間ではなく見守るとか超越するとかで疎外しているわけですな”旦那様”
そのような見方が健全である場合もございますな”奥様”」




