1534_うしおのそうめん、闘争心、逃走。
立ち向かっていく行為は勇気の表出であるか否かとかぼんやりと想像するわけでございますが、乱暴な気持ちであるかないかとか、そもそも純粋であればよろしいのかとか、その一途さが悪と評価されているような部類でも許されるのであろうかとか、誰がそれを許すことができるのかとか、思考する、動機を言語化する、それそのものが無意味であるとか、獣とどこが違うのかとか、獣になることのどこが悪いのかとか、そのようなことを連想的に想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
少なくとも後片付けに苦労しないので、家庭内の獣は遠慮していただきたいものでございます。今日も元気可愛いですな。
戦うことはいけないことでありましょうか。そのような素朴な疑問が生まれてくることは自然な流れであり、そのような発想そのもの抱くことが幼さの表れであるという意見も出てきそうでございます。いつものごとくそれは環境やら、歴史やら、状況やら文化的な背景やらによって変化するものであって、紋切調にこれはこうであるからこうである、と是非を判断できるようなものではない、とそのような結論が出てくるわけでございます。
では、今この瞬間にそのように乱暴な気持ちになり、突き進むことは間違いであるのかと尋ねられた時にどう応えることができるかが、大切と申しますか、必要になることがあるのではなかろうかという話に発展していくのではなかろうかと予想するわけでございまして、基本それは自分で決めるしかないのではないかと突き放すか、こちらの利益になるように誘導するか、どちらかが正解になることが多いのではと想像するわけでございます。
判断を人に委ねた瞬間に意味がなくなる、不利になる場合はこれは確かにありそうなものであるかなと予想できるわけでございますが、全く意見を参考にしないままに行動を繰り返すこともまた、容易に非効率であるということも予想できるわけでございまして、つまるところ、聞く相手を間違えないようにしましょう、とか、うまい質問を考えましょうとかその辺りの技術を磨くべきではなかろうかというような、意見となることが自然ではなかろうかと予想するわけでございます。
人を見る目を養いましょう、というのはそれほど難しくはないわけでございますが、ではどうすればそれがなされるのかとかとなると、これまた、定型文がないわけでございまして、正確にはそれらしい意見は言えるのではありますが、全てに当てはまる正解を示すことは不可能に近く、もしくは膨大な事例に押しつぶされることになるのではなかろうかという、こうきたらこういくというような手本はあまり意味がないことになる、場合が多そうであるのでは、と想像することができるわけでございます。
より抽象的に助言をすることが求められる可能性が高いのではなかろうかとか、想像するわけでございますが、言語化するならな、誠実であるかどうかを判断基準の一つにするべきではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、どこがどうしたらそうであると評価することができるのか、となりますと、これまた状況やら環境やら、そこに至るまでの道筋やらを考慮しなければならなくなるわけでございまして、なかなかに難しいものがあるのではなかろうかと予想するわけでございます。
同一人物であっても、信用できる人格とそうでない人格が同居していることは珍しくなく、時間経過やら、環境の変化によってそれに振れ幅が出ることは自然なことでございまして、判断はその時々で変化させなければならず、恒久的な基準とすることはかえって危険な事態を創出する可能性すらある、のではなかろうかなとかも予想できるわけでございます。
信じるしかないというような状況に追い込まれないように立ち回ることができればよろしいのでありましょうが、残念ながら、構造的に無理そうでありますな、などとぼんやり想像しつつ、おしまいです。
「神が信じる人を信じなさい、とか言えそうではありますね」
「人の弱さをまず知るべきであり、そちらが安全領域でありますよね」
「何かを盲目的に信仰することが幸せとなることもありますな”旦那様”
どこまでも愚かであることを前提に構造を構築することですな”奥様”」




