1533_どくどくと流れるものは潮。
血汐ではないのかと、血液が外に流れ出るということは直線的に生命の危機であるということでありますので、忌避される状態であることには違いなく、そのような記号として使われることもあるのではなかろうかなとか、しかしながらそれが体内を巡っていなければ生命活動を維持することは不可能であるので、状態によって表現の方向性が変化してしまうものであるのであろうなとか、今更何をな感想を抱きつつ始まる今日のゴブリンでございます。
擦りむいたですね。お薬塗って、湿らせたままの方が治りが早いのです。痛いの痛いの飛んでいけーなのですな。今日も元気可愛いですな。
血を見ると気持ち悪くなる、匂いを嗅ぐとそうなる、ことはそうならないよりは健全であるのではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、職業柄そのような状態に慣れなければならない方もおられるようでございまして、そうなりますと、情緒的に歪みが出る心配をしなければならないのでありましょうか。
悲惨だとか、残酷なとかの情景は、慣れることができるのかどうかという疑問があるわけでございまして、実質そうなっている方々が存在するのであるから、可能ではあるのであろうなとか予想するわけでございますが、やはりそれぞれの人格の性質によるのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
客観視のできるできないが関わってくるのであろうかなとかも想像するわけでございまして、どうなのでありましょうかね、冷酷だと言われることを厭って、それを隠しているような実力者がおられる可能性が出てくるわけでございますが、そのような性質の方がふさわしい職業に就けなくなる構造的な欠陥が社会にある可能性があります。
さらには、流血表現などが平気すぎる人格が、好奇心からそれを行うようになってしまうと、それは利益ではなく損益となって社会に襲いかかる場合が出てくるわけでございまして、決して忌避するのではなく、そのような心の有り様もまた必要なものであるのであるよと世論を動かしておくべきではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
残忍性とか、強暴性とか、攻撃性が高いとされている人格を認めてあげてそれにふさわしい環境を用意し、有効に活用するべきではなかろうかとか、想像するわけでございますが、文明と言いますか、科学が極まった社会における、管理構造であるのではという連想もできるわけでございまして、幸せになれるかどうかは微妙なところであろうかなと想像するわけでございます。
暴力を好む方々にはそれを糧にして利益を生むようなお仕事を用意すればよろしいのではなかろうかなとか、連想するわけでございまして、互いにそれを向けあることで、感情の処理をしつつ益となるそのうような構造が存在すれば、何らかの安全弁になるのではなかろうかな、とか予想するわけでございます。
肉体を使用した、運動をそれの昇華先に選ぶ場合も普通のお話でございまして、闘争本能を満たすために、競技に参加することは、これは長い歴史が存在するやり口でございまして、安全に発散させる良い手段になり得るわけでございますれば、全体の安全を確保するためには、そのような催し物をできるだけ、開催することが必要になるのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
なるほどであるからこその平和の祭典なわけであるのであろうかなとか、それが持つ闘争心を安全に発散させることができるというやり口であるわけでございまして、大々的にすることは抑圧の解放になり得るわけでございますれば、このようなお祭り騒ぎが容認されている意味も理解できる、などというひねってみたけれども、まあそれほど珍しくない意見に落ち着いたあたりでおしまいです。
「何かに熱中しているならば諍いは起こせない、そのようなロジックですね」
「国威を示す戦争の代替品のようなものになってますね確かに」
「戦争に熱中するよりは安全でありましょうな”旦那様”
戦意をそらす役割はありそうではありますが、遺恨も残りそうですな”奥様”」




