1525_居間、縁側、麦茶、汗。
麦わら帽子に手ぬぐい、桶に浸かった西瓜、蝉の声、入道雲、遠くの山、そのような景色は見たこともないのでありますが、郷愁を感じさせられるようになるのは、文化汚染であるのであろうかなとか、ただそれを塗りつぶすくらいに灼熱の太陽というものがありまして、情緒を破壊していくのであろうかななどとぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
空調は完璧でありますよ、どうして外に出ようとするのでありましょうかね?退屈だからですかそうですか。今日も元気可愛いですな。
極端な気候はそのまま命に関わるので、懐かしさを感じさせない、もしくはその方向に行くことを妨げるのではなかろうかなとか、あの時は大変であったなぁ、と振り返ることはそれほど幸福とは言えないのではなかろうか、なんとすれば現在進行形におきまして、その困難に直面しているのであるならば。
前は我慢できたのであるから今回も大丈夫であろうという楽観は、徐々に条件が酷くなる環境にはとても弱く、それは外的要因もありますが、当人の感覚、感触、体力などが鈍くなっていることに気がつかないままに挑むこととなり、ありていに言って致命傷になりかねない、のではなかろうかなとか予想するわけでございます。
自分の感覚を信じるのではなく、客観的な観測情報を信じるようにするべきであるという一言は値が千の黄金に至る道筋ではなかろうかとか想像するわけでございますが、金属というものは涼しいという錯覚に陥って、炎天下の鉄板に手を乗せるというような愚行をうっかり行わないようにしなければならず。
この状況で温室に閉じ込められるようなことはないようにしなければならず、また閉じ込めてはいけないわけでありまして、ある意味外出が制限されている中、弱い生物が炎天下に放置されている案件が少なくなったことは、ある種の救いであるわけでございまして、自由が欲しいのであるならば、それに見合う貢献をするべきであろう、というよりも賢くなってください、と条件をつけるようになりそうであるわけでございます。
本来自由というものには対価が必要ではない概念でありまして、何かにとらわれるのであるならば、それは本当のそれではないという感想もあるわけでございます、であるならば、野放途な本質的なそれは、悪となることもまた自然な流れではなかろうかとか、想像するわけでございますが、そうではなく、人格の本質が、そうであるからこそ、それを野放しするから酷いことになってしまう、という考えが古来からあったようでございまして。
都合の良いところだけを取り込んで、そうでないところは切り捨てて行く生き方は、それほど不自然ではなく、むしろ、効率的であり生物として正しいのではなかろうかと、予想できるわけでございます。そうではなく、そうすることによって生き延びてきた個体が過半数を超えているからこその、観測結果であるのではなかろうかとか、想像するわけでございます。
皆が皆、自分勝手に生きているというのに、社会が成り立ってきたのはどうしてであろうかという問いに対しては、どこかで誰かが、我慢している、割を食っていつからであるという答えが返ってくる、のではなかろうかなと予想するわけでございまして、どうしてもそうしなければならない、もしくはそうならざるをえない環境に置かれてしまっている人格が、存在するのであろうかなとか、予想するわけでございます。
自由に対する対価は要求されるべきではないけれども、自発的にそれをなした方が自由になる時間が増えるのでは、という認識は、それほど間違ってはいないのではなかろうかとか、まあ、定義の問題ではあるのであろうかなとか、ぼんやり予想したあたりでおしまいです。
「自由を制限することで得られる快楽もあるわけです、すなわち宗教」
「それを対価と認識させないように学習させるわけでありまして」
「思想の翼を籠に入れ虜囚にするけれどもそれは守りでありとかですな”旦那様”
なすようになしてそれが悪にならず、とかでありましょかね”奥様”」




