1518_どーどどどどっど、ドードーと怒涛。
風の吹く音の表現として、秀逸ではなかろうかとか、もしくは唯一無二なものであるのではなかろうかとか、それっぽい褒め言葉を冒頭に置いておけば、あとは野となれ山となれでも大丈夫ではなかろうかなとか、ちょっと卑怯なことを考えつつ、初めてみようかなと作戦でいく今日のゴブリンでございます。同じような入りとして、雪国に行くくだりを使う流れもできそうでありますね、どこかでやったような覚えもあったりなかったりするわけでございますが。
口で風の音を真似ながら、手を広げて走り回るという行為は、誰の真似なのでありましょうか?今日も元気可愛いですな。
本歌取りはいつの世も行われてきた文化ではあるわけでございまして、どこに創作物の独自性を求めるのかを探すことから始まっているようなものである、ということも言えそうではなかろうかと想像するわけでございます。ただそれそのものでしか表せないという形は意外と少ないのではなかろうかなとかも想像できるわけでございます。
全く同じ内容でも構わないのではなかろうかという発想もあるわけでございまして、ただそれは前に同じものがあることが周知されていること前提での芸術であるべきであろうかなと、少なくとも誠実であるのではなかろうかと想像するわけでございまして、そうなのであるならば、その元の作品を提示すれば良いのではないかという疑問も当然巻き起こってくるわけでございますが、そのあたりは環境の問題になるのであろうなとか想像するわけでございます。
適切な時期に相応しい場所での公開というものが創作物の価値を引き上げている可能性が高いのであろうかなという予想ができるわけでございまして、そしてその波はどうにもこうにも読み切れるものではない現状がございますので、ありていに言いまして、運に左右されるのであろうなとか、ぼやけるわけでございます。
それが時流に乗れるかどうかは、周囲の環境によるわけでございまして、それは刻一刻と変化している上に、観測が難しいと言いますか、過去のそれしか確定できないというような原則回避できないように見える欠点があるわけでございまして、そうであるならば、どのように対応すれば良いのかと言いますと、特にこれといって紋切調な解法は存在しないのではなかろうかなと想像できるわけでございます。
であるならば、数をこなすことも一つの手段になり得るのではなかろうかという予想も当然できるわけでございまして、それにまつわる技法、技術を高めていくこともまた基礎体力を維持発展させることにも似て、大切になるのではなかろうか、などという、誰もが考えるような助言が生まれるわけでございます。
さらには一つの助言から、その真逆を発想したり、斜めに、上か下かは判断が難しいものがございますが、ずらしたりしたものを、提示したりするわけでございます。多作だと価値が落ちるので、寡作に行きなさいとか、手法をどんどん変化させるべきであるとか、最新の技術を導入しなさいとか、逆に古きをたずねてみなさいとか、外野から助言めいたものを言いはなつ手法は、数多あるわけでありまして、往々にして迷いの元になることも多い、などという展開もそれほど珍しくないわけでございます。
周囲からの情報によって人格が作られて動いているのであるからして、それを無視することは普通に不可能ではなかろうかなという発想はあるわけでございまして、であるならば、それを少なくすることによって、処理能力へ領域を多くとることが解決の一手になる、場合もあるのではなかろうかなとか、つまりは、たまには沈思黙考をするべきであるという助言が、まあ、結構無責任に放たれていくことを観測しつつ、おしまいです。
「一時の迷いを棚上げする効能があるものを宗教と呼びます」
「調査を深めている段階では発想が出ない、ことも多いようです」
「心に棚をつくる日曜大工なわけですな”旦那様”
全く関係ないことをしている時に新たな発想を得る場合も多そうですな”奥様”」




