1510_はいはい、聖杯、乾杯、さかずきの銀河。
楽園へようこそ、とか言われたならばそこはそうではないのである確率が高いのではなかろうかなとか、少なくとも楽しいことしかない世界は胡散臭いという印象がある方も多いのではなかろうかなとか予想するわけでございますが、目指す方法としては間違っていないのも確かなのではなかろうかと、達成したと感じた瞬間に価値を少なくしてしまうものであるという予想は、酸っぱい葡萄理論であるのであろうかなとか、ぼんやりと想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
隠されているときになるものではありますよね。大したものではないわけでございますただ手を出すとちょっと危ないかなという類のものでありまして。がっかりしないでいただきたいのです。今日も元気可愛いですな。
理想というものはそのようなものであると嘯く方も多いようでございますが、その到達点は否定できるものではないのではという感想もありそうでございます。そこへ行けないということはそれを否定する材料にはならないのであろうかなとか予想するわけでございますが、そもそもそれそのものの定義があやふやなものであるという問題もあるのであろうかなとか想像するわけでございます。
ただそれの定義化は難しいであろうなという予想も簡単にできるわけでございまして、なんとすればそれは人格の数だけ存在するのであろうなという予想に基づくものであるわけでございます、しかもそれは周囲の環境によって要件が変わるわけでありまして、もちろん時間とかもその環境の要素になり得るわけでありまして、刻一刻と前提が変化する理想郷とかどうやっも実現できなわけでございます。
環境が整わないのであるならば、それに適応した個体しか生き残らないようになるわけでございまして、ある意味そうなっている状況が理想郷と言えるかもしれないとかぼんやり連想するわけでございますが、生きているだけで満足であるということを肯定するような世界を楽園と呼ぶにふさわしいのか、という疑問は確かに生まれそうではございます。
それを追い求めている限り心に平安がないのであるならば、それを手に入れることを諦めることが快楽につながるようになるわけでございまして、求める限り手に入らないという矛盾のようなものが構造的に発生するのではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、この構造もそれほど珍しいものではないわけでございまして。
求めよ然らば与えられん、は、嘘ごとであるかというお話になるわけでございますが、そもそも欲しなければ、与えられたことに気がつかないという場合が多そうでございまして、自分が何を手に入れたいのか、そしてそれはどのような形で見出すことができるのかとか、まずそこから定義しなければ、手に入れたという実感がない、のではなかろうかとか想像するわけでございます。
ただただ漠然と楽園を欲しても、それが何であるのか、どうすればその人格は満足するのかをあらかじめ決めておかなければ、それは際限なく続く道のりを歩き続けるだけの苦役に過ぎなくなる、のではなかろうかなとは予想するわけでございまして、しかしそのようなものであると認識しておけば、楽しみながら進むことも可能ではなかろうかなとか、本質的にそれはごまかしであるのであろうかなとも想像できるわけでございます。
それに意味を持たせるかどうかは、自身で選択できるという錯覚を持っていることが、安全であるのではなかろうかなという想像もできるわけでございまして、人格に自我があるとい錯覚を盲信することによって、楽園を目指すことに疑問を持たないようにしているか、現状に満足して、気がつかないだけですでに至っていたのであると、ごまかしてしまうやり口もそれほど間違ってはいないのであろうかな、とか、無駄とというなら全てがそうであるのである、などと、言いきってみて、惑わしたところで、おしまいです。
「いつかは消えてしまうのにどうして求めるのかというものに寄り添うのが宗教です」
「後に続くものがいるから無駄にはならないという幻想を作るものが学習です」
「永遠を保証することによって今を保つわけでありますな”旦那様”
いつかは途切れることを知らしめた上で為させるわけでありますか”奥様”」




