1509_ジョー、立ったり座ったり、燃え尽きる灰。
有名な物語の印象的な場面だけが一人歩きをしていて、その作品を通しては見ておられないというかたも多いのではなかろうかなとか、大事なところだけを切り抜いて編集してしまったそれは本来の作品が意図するものとは違うものになってしまっていて、これを伝えたかったのに伝わらないという制作側の残念感が創出される可能性が高いのであろうかなとかぼんやりと同情しながら始まる今日のゴブリンでございます。
伝えようとしている気持ちはわかるので、微笑ましくはありますが、ひどいねたばれになる可能性が大きいので、気をつけましょうね?今日も元気可愛いですな。
もともとも創作物に情報を伝達する技術が足りないのではなかろうかと、解説を付け加えるやり口もあるわけではございますが、実は余計なお世話である可能性もあり、そもそも伝わらない、や、正確に伝わらない、誤解される、ことを前提に作品を構築している可能性を考慮に入れていない、場合もありそうでありまして。
その意図を伝わりにくくしている意味はどこにあるのかというならば、まさに伝わらない、難解である、誤解しやすい、不明瞭である、ことそのものが目的であるのではなかろうかというそこにあるのではなかろうかと予想するわけでございまして、ただそれは未熟であるかどうかの境界が曖昧になっているようにも見受けられる、のではなかろうかと思われるのでは、と想像するわけでございます。
本来の作品に加えて、解説することで、魅力を増す存在もあるわけでございます。それは解説される、説明される、もしくは拡大される、解釈を併記されることによって完成する芸術である可能性が残されているわけでございまして、作者の意図した通りの流れになっている可能性もあるわけでございます。
意図が不明なまま、時代を重ねている創造物というものはそれほど珍しいものではなく、そもそも断絶している文化ならば、前後を掘り起こす、環境を再現する、背景を類推する、あたりを同時にしなければ、その芸術を楽しめない、意味を汲み取れない、場合も多いわけでございまして、いやそこまでしてそれを娯楽としたいのかと言いますと、趣味の領域ではあり、そしてそれはとても大切なものであるのではなかろうかなとか連想するわけでございます。
伝達されるときに誤解されて情報が変質することを前提とした芸術はすでにどこかにあるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。もしくはすべてにおいてそうであるのであるから、特に意識しなくとも誤謬の美は日常に溢れているのではなかろうかとか想像するわけでございます。
それはわかりにくいことを引き換えに、正確に物事を述べているのかもしれない、という連想もあるわけでございまして、冗長な文章は、因果関係を客観的に、包括的に、連想が赴くまま、必要な背景情報をできるだけ内包するように、書かれていくわけでございまいして、背景を丸ごと最初から、その顛末、成り立ちの突端から説明しようとする、伝えようとするからこそ、そうなっているのであろうなと、想像できるわけでございます。
時間をかけて読み解くならばそれは最高の芸術品となり得るのであろうかなとか想像するわけでございます。誰にでも最初から根気よく、言葉の意味を調べながら、最後まで読みきったならば、ほぼ全ての情報が誤解なく伝わる可能性が高い文章というものは、実は貴重なものであるのではなかろうかなと、つまりは、生まれ持った才覚ではなく、また伝える方の特異な才能もいらない、ただただ、積み上げてきた技術やら知識だけがものをいう、公平な道具になるのではなかろうかなとか、連想するわけでございます。
そしてそれはすごく面倒くさいと思う人が多いのであろうなと、残念な感想もまた連想しつつ、おしまいです。
「教養が低いことを前提にした教義というものはありますね」
「教養の積み上げが果てしなく見える瞬間はあります」
「バカにしているのではなく、愚者に揃えているだけです、ですかな”旦那様”
その頂にまで登る必要はないと悟ることが必要でしょうかな”奥様”」




