1502_多々、少々、集団、個人、差異、同位。
個と集団ではその性質を変える、というような認識が存在するようでございますが、それは真でありましょうや、そしてそれが真であるならばその理はどこにあらんや、逆に偽であるならばまたその理は?とかなんとかまあ、常々疑問として抱いていたものを言語化してみたなどと適当を言ってみるあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
周囲の情報と同調することで、行動が大胆になる場合はあるのでありましょうが、衝動と何が違うのかと言いますと、結果としてはそれほどの違いはなく、つまりはいきなり走り出すと危ないのでおやめくださいということにしかならないのであろうかなと。今日も元気可愛いですな。
思考を周囲に展開している、と申しますか、個人としてのその人格は思考を停止している可能性が高いのではなかろうかと予想するわけでございまして。判断を周囲に丸投げしていると言ってもよろしいかもしれませんが、情報の処理すら自前で行っておらず、行動に直結しているわけでございまして。
それほど珍しいことではなく、さらに言うならば、思考を外部委託するやり口は普段でも結構やられているのではなかろうかなとか想像するわけでございます。連想の元と申しますか感覚が捉える外界の様子によって思考を誘導させている、もしくは思考そのものを形作っているのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
単純に、色だけでも思考に影響を与えると申しますか、記憶の外部化ともいうのでありましょうか、連想、過去に蓄積された情報と今そこにある情報が繋がっていき思考として浮かび上がってくるわけでございまして、常にその人格が行っている行動に過ぎないわけでございまして、自分の欲求に沿った連想を素直に行える集団というものが摂取できる感覚半径のうちにあるので、そのまま思考を上書きしてしまう、直感がそろってしまう、のではなかろうかなとか予想するわけでございます。
個体の脳みそだけでは思考が完結しないという仕様が存在するのであろうなとか、予想するわけでございまして、外界からの刺激が必要とされると予想するわけでございまして、そしてそれは、一度それを経験したならば、記憶として蓄積された刺激ともなり、時間を超えて、過去から、外界のそれを反射材料として利用する、反応する、直感として、もしくはただ単に連想元として使用されるのであろうかなとかぼんやり想像するわけでございます。
過去情報からの連想であるならば、それはその個体の歴史を大きく反映するわけでございまして、個性が大きくなるように観察されるわけでございますが、そこを経由せず、周囲の今ある情報によって連想する、感情を動かす、行動に移すのであるならば、入れるそれに差異がなく過去のそれと響き合わないのであるからして、似たような出力になってしまう、のであろうかなとか予想するわけでございます。
熱に浮かされるような、という表現そのものであるのであろうかな、周囲の刺激、入力情報の影響が強すぎで、思考停止に陥っているのであろうかなとか予想するわけでございまして、そしてそれが、心地よいという感覚も伴っているわけでございまして、なるほど、癖になってしまっている可能性はあるのであろうかなと。
思考することが、苦痛であるという考えはあるわけでございまして、そもそもそれは資源の消費を伴うわけでございまして、生存本能的に忌避される行為である可能性が高いわけでございます。自ら考えて判断する行為とその結果得られる利益が釣り合わないという感覚が発生してしまうと、そこを省くように生きる者が誕生するわけでございまして、思考を集団側に投げてしまうことによって熱量を節約し、快楽側へ資源を集中させようとするわけでございまして、なるほど、つまりは自然な流れではあるのであろうな、とか、怠惰に納得しながら、おしまいでございます。
「思考を放棄する道具としての神様も、一つの側面ではあるわけでして」
「集団の意識を主体にした社会も一つの形態ではありますね」
「盲目の羊であったほうが幸せになれる世界もまた歪ではありますな”旦那様”
みんなで作る幸せな世界、ではありそうでございます”奥様”」




