1503_どーいっとゆあせるふ。
分業制を否定していることになるので、社会的構造的には衰退している、もしくは逆行しているのではなかろうかという意見もございますが、個人の熱意とか熟練度とかの維持やら育成やらに対しては、むしろ好ましい成果が見られるのではないかという意見もありますので、どちらがより良い社会を構成するのであろうかという議論が巻き起こっていく、のかもしれなとかぼんやりと想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
自分しかいないので、分業制はありえないということでありましょうか、世界が狭いがためにそうならざるをえないと考えると、他者との交流機会を作るべきではなかろうかという発想になるのであろうかなとか。よくできてますね。今日も元気可愛いです。
効率を考えるならば、分業制は妥当な選択肢であるわけでございまして、一つの作業を繰り返すことによる習熟度の上昇やら、単純化したそれの高効率化やらは今更議論にあげるまでもなく、しかし、その切り分けた内容によっては、機械化した方が良い場合も多く、ある意味人がその手で仕事を分ける必要はなくなってきているわけでございます。
労働からの解放という側面から見ると、分業化はその過渡期にあたるのであろうかなとか予想するわけでございますが、そうするとその人格は次に何をすることになるのかという疑問が生まれそうでございまして、一般的にはより創造的な行動を中心にするべきであるという意見が語られるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
働かなくても良いではなく、それが不自然に捉えられる社会になることは、それほど難しい想像ではなく、要は資源の高い使用効率、無駄がなくなり、適切な量で、再生産が無理なく行われる環境が整えられるようになると、労働という概念が薄くなるか消え去ってしまうわけでございます。高度な自動化社会というものでありましょうか。
生きることに資源をついやす必要が無くなった存在は果たして生き物と表現しても良いのであろうかとか、連想は続くわけでございまして、いやそれでも栄養は摂取しなければならないであろうし、肉体の維持は、健康の管理は必要ではなかろうかとか、なるわけでございますが、それすらも自動化がなされたならば、それはもう個としての生命体ではなくなっているのではなかろうかという予想ができるわけでございまして。
高度な社会的生物と申しますか、環境を含めてそういう生き物であるという認識に置き換わってくるのであろうかなとか予想するわけでございまして、もっとも現状でもそのような社会性に依存した、もしくはそれを活かした生き物であると言えるわけでございますので、方向性としてはそれほど間違ってはいないのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
それを歪だと捉える感性はつまりはまだ早いということであるのであろうかなとか、徐々にそれが変化したり変質していったりすることによって、自然に違和感が消えていくのであろうかなとか予想するわけでございますが、昔はこうではなかったという意見が肯定的に捉えられなくなり、感情を排して、事実として述べられるようになってくるのであろうかなとか予想するわけでございます。
個の概念が曖昧になってくるのではなかろうかなとか予想するわけでございまして、要はそれは差別のなくなる世界が作り上げていく最終形態か何かのようなものであるのではなかろうかなとか想像するわけでございまして、なんとすれば、自己と他人の意識を無くする方向性に仕組みが変質している可能性が高いのではなかろうかとか、予想するわけでございますが、その結果訪れるのは、熱量が飽和し情報が動かなくなる、社会生命体としての死亡判定になる可能性もあり、または一つの塊となった生命体が同じような流れで生成された他の社会情報生命体との邂逅を待つもしくはすぐに出逢うような、要は規模が大きくなっただけで周回している世界になっていくのではなかろうかなとか、妄想を発散させておしまいです。
「全てを集めたならば神様になるならば、我々はその途上にあるのかな」
「相互理解を行うためには個人として情報の断絶が必要になるのでしょうか」
「神にはなってしまうのでしょうね、祝福とはまた違いそうです”旦那様”
むしろ情報のやり取りに齟齬があるからこその社会生物であるわけです”奥様”」




