1487_隅に置けない、ど真ん中まっすぐ。
どこか鈍って聞こえるような単語ではあります。最後がぐで終わっているからでありましょうか、こう鼻に抜けるというかに凝るといいますか、明瞭でなくなると田舎風になるとか何とか、そのような法則があるのでありましょうか、などとぼんやり想像するわけでございますが、ある程度は発音の仕方で地方ぽさが強調されるのであろうかな、と謂わゆる訛りというものであるのではなかろうかなとか、連想しながら始まる今日のゴブリンでございます。
幼児言葉と訛りは似ているところがあるのかもしれないですね。聞きなれない音程であるから、純朴に捉えるのでありましょうか。今日も元気可愛いですね。
語尾を上げることによって、方言っぽく聞こえることがあるのかもしれないです、疑問系に近い発音にすることによって、自信のなさを連想させるのであろうかなとか、知識が足りていないことが純朴であるという連想も手助けしているのではなかろうか、とかなんとか想像するわけでございます。
洗練された言葉遣いではないという印象があるのではなかろうかなとか、そもそも何を持って研ぎ澄まされているのかという定義が結構曖昧であるのではなかろうかなとか、その都市で主に使用されている発音が、標準であるという決めつけが、感情を後押ししている可能性が高いのではなかろうか、とか、想像するわけでございまして。
その環境で使用している人格が多いだけで、本質的にはその地方独自の言い回しと変わらないのではなかろうかなという予想もできるわけでございますが、過半数の社会参加者に対して意味が伝わりやすい発音という利点があるわけでございまして、そこは朱に染まってもよろしいのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
逆に埋没することで印象が薄れてしまうことを不利益と判断して、あえて、周囲の方々が使用していない発音で会話を試みる場合もありそうではございます。計画的にちょっとずらしてみるわけでございますが、まるまる意味が通らなくなってしまうと本末転倒であるので、そのあたりは加減が必要になるのであろうかなとか予想するわけでございます。
ただ、演技での田舎言葉使用はわざとらしさが前面に押し出されてしまうこともまたありそうでございますので、からかっていると思われてしまうと関係性によっては不利益を生じさせる可能性が高いわけでございまして、状況によって頻度を変化させた方がよろしいかもしれないとか、ちょっとお世話様な事を想像するわけでございます。
天然であることが求められる場合もあるわけでございまして、この辺り、計算ではできない本能のまま発言するやり口が優位に立つ場合もありそうでございまして、塩梅が難しいのではなかろうかなとか予想するわけでございます。ただ、そこを意識し始めてしまうと、素材の味を活かせなくなってしまう可能生もございますので、適度な思考停止が求められたりするのであろうかなとか予想するわけでございます。
周囲の色に染まらないようにすることで、いつまでも鮮度を保つことができる、というような作戦もありそうではございますが、全く影響を受けない、または与えないということは不可能でございますので、その変化も演出として取り込んでいくことが必要なのであろうかなとか予想するわけでございます。
そして、唐突に原点に回帰するような言動を行うことによって、人格を確定させると申しますか、意表をつくことによって、認めさせるとか、印象に残させるとか、感情を揺さぶることができたりするのであろうかなとか、そもそもそこを計算しだしたあたりで純朴ではなくなっているのかとか、いや田舎者と計算高いは両立する概念ではあるな、などと思考を発散させつつ、おしまいです。
「純粋な悪意というものは結構導きがたいものでありますよ」
「文化の保護という観点からは地方色も大事にしたいですね」
「悪いとは思っていない場合もありそうではありますな”旦那様”
保護に走った瞬間に天然ではなくなる矛盾も出そうですな”奥様”」




