1483_壱、一、1、縦と横。
統一するのであるならば、一は一、読みやすさを考えるならば、横書きでならば1、少し古さを出したり、特別感を出したいならば壱、くらいの感覚であるのであろうかなとか、表現のぶれを気にするならばそこは一つに決めておくべきではあるけれども、工夫した書き方の範疇において、切り替えるやり口はそれほど珍しくはなく、そもそも気分で書き連ねていくやり口であるならば、ぶれている方が自然なのであろうかなとか、ぼんやりと想像するあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
口調を色々ごちゃ混ぜにして、個性をなくしていくような、それが作られるのはこれからであるのか、どうか、真似っこはたどたどしいものが良いのかもしれませんね。今日も元気可愛いですな。
そもそも表現を統一する必要があるのでありましょうか?というような問いは必ず出てくるのではなかろうかなとか予想するわけでございます。文脈ごとにふさわしい書き方があるのではないかとか、その場の勢いで語句が乱れることはよくあることであり、厳格にその規則を当てはめることは、その流れを断ち切ることになるのではなかろうかという予想があるわけでございます。
ただ、誤解を少なくするような書き方が必要な文章は、一定の規則に基づいて、表現を統一した方が良い場合が多く、何故ならば、場面場面で、言葉の定義が変更してしまっては、読み解く方が混乱することが多いのではなかろうかという予想に基づく、対応であるからでございます。
その誤解を助長するために、語句の定義を揺らして、たたみかけるように混乱させていくやり口もまたありそうでございまして。正しく伝えないのではなく、読みとることに苦労させる必要がある文章というものが必要になることもある、のでありましょうか。わかりやすさと、面白さとは、両立しない場合もあるということでありましょうか。
無用に混乱させる文章には価値があるのであろうかという問いも出てきそうでありましょうが、それはもう趣味の範疇になるのであろうかとか、何が書いてあるのかわからない文章を神秘的であるという意味合いに捉えさせることで、魅了的なそれを演出することもそれほど珍しいものではないのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
それを意図して行なっているのか、文章作成能力が未熟であるから自然にそうなっているのかで違いはあるのかどうかという疑問も浮かぶわけでございますが、型を知ってそれを崩すならば、型破りであり魅力度が増す可能性が高いわけでございますが、それを元々知らないのであるならばそれは形無しとか、未熟そのものであるだけでございますので、そのようなものを楽しむ趣味の方でなければ、あまり魅力的には映らないのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
ただ、文体やら文章の流れやら、使用する語句の選択やらその順番やらは、時代時代で変化することが多いように見受けられるわけでございまして、そのあたりはそれを読み解いて適切に使用する技術が必要になるのではなかろうなかとか想像するわけでございます。基本は同じであるという意見もまた正しそうではございますが。
誤字脱字は避ける必要があり、語句の不適切な使用と申しますか、御用はそれを意図しないのであれば、避けたほうが良いものである、あたりは基本なのではなかろうかなとは予想するわけでございますが、これもまた、味があるという一定数の肯定者が存在する可能性もあるわけでございます。ただそれでも全く言語体系が異なっているような暗号のような文章を好む層は少ないのではなかろうかなという予想があるわけでございますが、意外に一定の客層が見受けられる可能性もあるのではとか、ぼんやりと想像するわけでございます、おしまいです。
「わかりやすい経典では、宗教家が不必要になりかねませんからね」
「読み解く練習は必要になるでしょうね」
「権威ある文章が簡単すぎると困る人もおられそうですね”旦那様”
抽象化を上手に行えるかどうかが肝のようですな”奥様”」




