第9話 記録には、そう残っておりますが
五日目の昼に、中継所へ着いた。
西の街道の中ほどに建つ石積みの小屋だ。ギルドが置いていて、遠征隊はここで通過の記録を出す。人数と日数と、荷の残り。書いて出すだけの手続きで、ふつうは半刻もかからない。
その半刻が、今日は終わらなかった。
「――帯同者の欄が、埋まっておりませんね」
声を聞いた瞬間に、手が止まった。
窓口の向こうに、ダリウス・メルロー様が座っていた。
驚きは思ったほど大きくなかった。胸が跳ねたのは半拍ぶんで、そのあとに来たのは鍋の火が強すぎるときと同じ感覚だった。何かを下ろさなければならない、という感覚だ。
この一月、あの方のことを考えなかったわけではない。ただ考える時間が短かった。荷を数え、水を割り振り、器の返る順番を書いていると、一日が終わる。三年ぶんの相手のことは、その合間に少しずつ薄くなった。
薄くなっていたことに、こうして顔を見るまで気づかなかった。
◇
「ご無沙汰しております」
わたくしは先に頭を下げた。下げないという選択もあったが、下げないほうが長引く。
「セラ嬢。……いや、失礼。今はヴィンター殿とお呼びすべきか」
「セラで構いません」
「そうもいきません。ここは公の場ですので」
ダリウス様は羽根ペンを置いて指を組んだ。三年間で何度も見た仕草だ。これから正しいことを言う、という合図。
「わたしは先月、遠征査定官を拝命しました。帯同者の資格を検める役目です」
「おめでとうございます」
「祝われる筋のものではありません。規定です」
規定です、という言い方も、変わっていなかった。
「では、規定について伺います。わたくしの欄の、何が埋まっていないのでしょう」
「炊事担当としての証明です。ギルドの認定を受けた者であれば認定番号を、そうでなければ、雇用主の推薦と実績の記録が要ります」
「契約書はございます」
「契約は雇用の証明であって、資格の証明ではありません」
◇
その言い方は、いつもどおり正しかった。
わたくしは荷から綴じ本を出して、窓口に置いた。
「実績の記録でしたら、こちらに」
ダリウス様が表紙を見た。表紙には何も書いていない。
「これは」
「北の遠征十四日ぶんの、配った量と残した量と返された順番です。西の遠征も五日ぶん書いてございます」
「……日誌ですか」
「帳面です」
ダリウス様は綴じ本を開いた。開いてから、しばらく黙っていた。
この方は数字を見ると黙る。三年間でそれだけは学んだ。屋敷の卓で家計の話になったとき、この方は必ず一度黙ってから間違いを一つ見つけて指摘した。そしてその指摘はいつも合っていた。
周りはこの方が査定官になったのを家の力だと思うだろう。メルロー家は古く声も大きい。実際、屋敷でもそう囁かれていた。あの方がどんな役目に就いても、家が押し込んだのだと言われる。
けれど、この方が黙って数字を追う姿を見たことがある人間は、たぶんわたくしだけだろう。
あの方は数字を疑わない。数字が合っていれば、そこに書かれた人間の身分も評判も見ないし、合っていなければ相手が誰であっても撥ねる。それは長所であり、同時にこの方の弱いところでもあった。
なぜなら、数字は誰かが書くものだからだ。
書く人間が正しいとはかぎらない。そこだけが、この方の帳面には抜けている。
「十日目の欄が、他と書き方が違いますね」
顔を上げずに、ダリウス様が言った。
「はい。その日は、器を下げませんでしたので」
「なぜ」
「下げない場合に何が起きるかを、確かめておりました」
ダリウス様は綴じ本を閉じて、こちらへ滑らせた。
「実績としては、認めません」
「はい」
「ただし、記録としては読めます」
◇
そこへ、後ろから足音がした。足音がしないほうの人が、わざと音を立てて歩いてきたのだとわかった。
「隊長のグレン・アーレンスだ」
「存じております。S級の方は名簿の上のほうにおられますので」
「炊事担当の推薦は、俺が出す」
「雇用主の推薦は、身内の推薦です。規定では加点になりません」
「では何が要る」
ダリウス様は少し考えるふりをした。ふりだ。この方は考える前に答えが決まっている。
「実地の査定を行います。帰路にもう一度ここを通られますね」
「十日後だ」
「では十日後に。同じ荷、同じ人数、同じ日数で七人ぶんの食事を組み立てて見せていただきます。組み立てられなければ、帯同者の欄は空のままです」
「空のままだと、どうなる」
「次の遠征から、この方は同行できません」
火の気のない小屋の中が、少し静かになった。
「わかりました」
わたくしが言うと、ダリウス様が初めてこちらを正面から見た。
「随分と、あっさりしていますね」
「泣くとお思いでしたか」
同じ言葉を二度使った。使ってから、少しだけ胸がすいた。
◇
窓口を離れるとき、ダリウス様がもう一度だけ口を開いた。
「セラ嬢。念のため申し上げますが、わたしはあなたを落とそうとしているのではありません」
「存じております」
「規定を適用しているだけです」
「はい。規定は、誰にでも同じように当たりますので」
わたくしは頭を下げた。下げながら、この方の言うことがまた正しい形をしているのを聞く。
正しい形をしているものは、正しいとは限らない。この一月で、それだけは覚えた。
◇
小屋を出ると、ニコさんが石段に座って待っていた。
「なんか揉めてた?」
「十日後に、試験を受けることになりました」
「試験」
「七人ぶんの食事を、その場で組み立てます」
ニコさんが顔をしかめた。
「それ、いつもやってることじゃん」
「はい。いつもやっていることです」
「じゃあ楽勝だ」
そうだといい、と思った。
いつもやっていることを、いつもどおりにやればいい。それで通らないなら、通らないほうが間違っている。
ただ一つだけ、引っかかることがある。
あの方は「同じ荷で」と言った。同じ荷というのは、十日後にわたくしたちの手元に残っている荷のことだ。
わたくしの帳面には、十八日ぶんの割り振りが書いてある。十日後にどれだけ残る予定かもそこから出る。けれど、それはわたくしの帳面の中にしかない数字だ。ダリウス様は綴じ本を五日ぶんしか読んでいない。
十日後の残量がいくつになるかを、あの方はまだ知らないはずだった。
知らないのにそれを条件にした。条件にできるということは、残量が読めるということだ。読めるのは、こちらの帳面を見た者か――荷を積んだ者だけになる。
わたくしは荷車を見上げた。いちばん上に載せた、口を縫い直した袋が、そこにある。
縫い目は、まだほどけていない。
ダリウスは悪い人物ですが、無能ではありません。この人が査定官になれたのは家の力ではなく、数字に正確だからです。セラだけがそれを知っていて、そのことは第14話で効いてきます。
「泣くとお思いでしたか」を二度目に使わせたのは、第1話の彼女とはもう立っている場所が違うからです。
次回、いちばん長い六日の区間に入ります。水場に着く前に、荷が軽くなります。
【今日の遠征飯】中継所の湯を借りた粥/制約:他人の竈/ひとこと:借りた火は、返せません。だから丁寧に使います。




