第10話 今日はいい
十日目の夕方に、二つ目の水場へ着いた。
水場の脇には石造りの小屋がある。ギルドが置いた補給点だ。西へ向かう隊はここで荷を足し、帰路のぶんを積み直す。わたくしの帳面でも、ここで六日ぶんを受け取る計算になっていた。
ボルドさんが扉を開けた。
中は空だった。棚が三段。どの段にも何も載っていない。床に麻の切れ端が落ちているだけで、荷を置いた跡は乾いていた。
「……いつからだ」
ボルドさんが呟いた。わたくしは屈んで、床の砂を指でなぞった。
「三日か、四日は経っております。埃の載り方が均しいので」
◇
小屋の壁に、受け渡しの帳面が鎖で吊るしてある。わたくしはそれをめくった。最後の行に、日付と署名があった。
――第八日、受領。金の穂。
「金の穂って、あの」
ニコさんが横から覗き込んだ。
「西回りの隊よ。B級だけど人数が多いの」
リィズさんが答えた。声が硬い。
「あの隊が、うちのぶんを持っていったってこと?」
「持っていったなら盗みよ。受領と書いてあるなら、回されたのよ」
わたくしは署名の字を見ていた。整った字だ。角の払いが揃っていて、線の太さが最後まで変わらない。荷役の人が板の上で急いで書いた字ではなかった。
――そういう手つきを、つい先日も見ている。豆の袋の縫い目だ。細かくて、間隔が揃っていた。
同じ人だとは言えない。字と縫い目は比べられるものではないし、比べたところで証明にはならない。それでも、どちらも「急いでいない人」の仕事ではあった。急いでいない人が、うちの補給を横から受け取っている。
わたくしは帳面の綴じ目を確かめた。頁は破られていない。書き足された行もない。ただ一行、正しく書かれているだけだ。
正しく書かれた一行を疑うのは難しい。ダリウス様なら、この行を見て何も言わないだろう。数字は合っているのだから。
◇
その夜の焚火で、残りを全部出して並べた。豆は一袋の底に少しだけ、穀の粉が半袋。干し肉はほとんど無く、油の壺はもう空になっている。塩だけは、袋のほうがまだ残っていた。
こういうとき、まず量を人に見せる。隠して割り振ると、必ず疑われる。疑いは飢えより早く隊を壊すのだと、母は言っていなかったが、屋敷の使用人たちを見ていればわかることだった。
「三日ぶんね」
リィズさんが言った。
「はい」
「帰りは八日」
「はい」
誰も何も言わなかった。ミルカさんが膝を抱えて、ハンスさんが火を見ていた。ボルドさんは薪を割る手を止めている。
「引き返すか」
グレン様が言った。
「引き返しても、街まで十日です」
わたくしが答えた。
「進めば八日で、水場は二つ。引き返せば十日で、水場は三つ。水は足ります。足りないのは食糧だけです」
「三日ぶんを八日にできるか」
全員がこちらを見た。わたくしは、その視線を数えた。六つ。今日は六つとも、こちらを向いている。
「できます。ただし、皆様に拾っていただきます」
◇
翌朝、まだ暗いうちに全員を起こした。
「この水場の周りに、細い葉が束になって生えている草がございます。根が太っております」
ニコさんが跳ね起きた。
「あれだ、山道で拾ったやつ」
「はい。灰汁が強いので、そのままでは舌が痺れます。焚火の灰を混ぜた湯で下茹ですれば抜けます」
「食えるの、それ」
ミルカさんが半信半疑の顔をした。
「食べられます。腹に溜まりますし、水を含みますので、少ない汁で嵩が出ます」
「毒はないの」
リィズさんが聞いた。
「灰汁は毒ではございません。痺れるだけです。ですが、抜き方を間違えると口が使い物になりません。ですから、下茹では全部わたくしがいたします」
「拾うのは」
「皆様に。わたくし一人では、七人ぶんの根は掘れません」
六人が動いた。
◇
その日から、隊の朝が変わった。
夜明けに散って、根を掘る。掘った根をわたくしのところへ持ってくる。わたくしは灰を溶いた湯で二度茹でて、それを刻んで、豆の粉と混ぜて練る。練ったものを平たく伸ばして、火の脇で乾かす。
乾かせば保ち、保てば運べる。運べるようになれば、それは今日の食事ではなく明日の食事になる。遠征で本当に足りないのは食べ物そのものではなく、食べ物を明日まで持ち越す手立てのほうだ。
三日ぶんを八日に伸ばす計算も、突き詰めればそれだけの話だった。今日のうちに拾えるものを拾い、傷む前に形を変えて、日付をまたがせる。誰かが一日ぶん我慢するのではなく、一日ぶんを外から足す。
塩は、母の壺のほうから出した。袋の塩は煮炊きに使う。壺の塩は練り物に使う。練り物に塩を効かせておけば、傷まずに四日は保つ。母が「これだけは切らすな」と言ったのは、こういう日のためだった。
思い出のために持っていたのではない。使うために持っていた。わたくしは蝋の封を切りながら、そのことを初めてきちんと言葉にした。
◇
十三日目の夜が、いちばん細かった。
根の茂みが途切れて、その日は誰も何も拾えなかった。練り物の残りを割って配ると、器の底が透けた。
配り終えて、鍋を傾けた。一皿ぶん、残っている。
「一皿だけ、余っております」
わたくしは言った。誰かが食べなければ、明日には固くなる。
ニコさんが立ち上がりかけた。いつもならこの人が来る。誰よりも早く、誰よりも多く食べる人だ。
立ち上がりかけて、座り直した。
「今日はいい」
火の音が、はっきり聞こえた。
「ニコさん」
「おれ、今日そんなに歩いてないし」
「歩いておられます。誰よりも前を」
「じゃあ、ミルカにあげて。あいつ坂の日は二杯なんでしょ」
ミルカさんが顔を上げた。
「なんであんたがそれ知ってんの」
「セラさんの帳面に書いてある」
ニコさんは膝を抱えて、火のほうを向いた。向いたまま、少しだけ声を落とした。
「足りない日に二杯目もらうと、誰かの一杯が消えるんだよ。おれ、それだけは知ってる」
誰も何も言わなかった。ボルドさんが黙って自分の器を差し出して、そこへ半分を移した。残りの半分をミルカさんが受けた。
◇
その夜、洗い物の灰を取っていると、リィズさんが横に立った。
「ねえ」
「はい」
「あなた、あの練り物をいつ思いついたの」
「思いついてはおりません。母のやり方です」
「じゃあ、なぜ壺を持ってきたの。塩は袋にあったのに」
わたくしは手を止めた。
「切らすな、と言われましたので」
リィズさんは、しばらく黙っていた。
「……あのね」
「はい」
「わたし、荷は減らすものだと言ったわね」
「はい」
「訂正はしないわ。でも、あなたのあの壺は、荷じゃなかった」
そう言って、リィズさんは灰の入った布を受け取った。受け取って、わたくしのぶんの器まで拭きはじめた。
「一年後のこと、まだ決めてないの」
「はい」
「決めなさい。八日ぶんの計算ができる人が、自分のことだけ計算しないなんて、おかしいでしょう」
ニコが一皿を譲る回を、この物語のいちばん最初に決めていました。いつも人の倍食べる子が譲るから効くのであって、もともと遠慮する子では意味がありません。彼が第2話から三杯食べ続けてきたのは、この夜のためです。
塩の壺も、ここでようやく本当の使い道が出ました。形見ではなく実用品だと、セラ自身がやっと言葉にしています。
次回、なぜ補給が別の隊へ回ったのかを調べはじめます。数字を書いた人がいるはずです。
【今日の遠征飯】草の根と豆粉の練り物/制約:三日ぶんを八日に/ひとこと:拾うのは皆様に。掘れない量は、一人では作れません。




