第11話 麦の穂を、丸で囲んだ形
帰路の三日目から、隊の歩き方が変わった。
朝の出発が遅くなる。根を掘るからだ。掘って、洗って、わたくしのところへ持ってくる。それから歩きはじめるので、一日の距離は二割ほど落ちた。
落ちた二割は、日数に上乗せされる。上乗せされた日数のぶん、また根が要る。掘る時間を惜しめば距離は伸びるが、伸びた先で食べるものがなくなる。どちらへ倒しても、もう一方が痩せる。
「回っているのか、これは」
三日目の夜に、ボルドさんが言った。
「回っております。ただ、少しずつ勝っております」
わたくしは綴じ本を開いて見せた。
「一日に掘れる根が、一日に食べる量をわずかに上回っています。差は小さいのですが、八日あれば足ります」
「わずか、とは」
「一日あたり、半食ぶんほど」
ボルドさんが黙った。黙ってから、薪を一本余分に割った。
◇
「ねえ、そもそもさ」
ニコさんが練り物をかじりながら言った。
「なんで補給、金の穂に行っちゃったの」
「回されたのよ」
リィズさんが答える。
「誰が回すの」
「ギルドじゃないわ。西向きの補給はギルドの倉から出ていないもの」
「じゃあどこから」
「ロッシュ商会」
その名を聞いたとき、指が止まった。
◇
「ロッシュ商会は、西の街道の物資をほとんど押さえてるの」
リィズさんは火を見たまま続けた。
「小麦も、豆も、干し肉も。ギルドは自前の倉を持たないで、あそこから買って隊に回す。そのほうが安いから」
「安いのですか」
「安いわ。今は」
今は、という言い方が引っかかった。
「以前は違ったのですか」
「五、六年前まではね。三つか四つの商会が競ってたのよ。今は一つだけ」
「なぜ、一つに」
「さあ。潰れたんでしょう」
リィズさんは肩をすくめた。この人にとっては、それで終わる話なのだろう。
わたくしにとっては、そうではなかった。
◇
ヴィンター子爵家は、香辛料と乾物を運ぶ。
穀物は扱わない。運ぶ道も売る先も持っていないし、積む蔵も借りていない。それなのに父の帳面には、去年ロッシュ商会から穀物を回してもらった受取があった。
わたくしはあの夜、父に聞いた。父は答えなかった。
答えなかったのは、答えたくなかったからだと思っていた。恥ずかしいのだろうと。商才のない当主が、しなくてもいい買い物をして損を出したのだろうと。三年前から赤い右端も、そのせいだと思っていた。
いま、別の絵が浮かんでいる。
扱わない品を買ったのではなく、買わなければ他の品を回してもらえなかったのだとしたら。
香辛料も乾物も、船だけでは動かない。港から先は街道を使う。街道には宿があり、倉があり、荷を積み替える場所がある。そのどれかを押さえている相手に、うちのような小さな家は逆らえない。
断れば、荷が遅れる。事故として。
リィズさんの言い方をそのまま当てはめると、五年前に潰れたという三つか四つの商会の姿まで、なんとなく形が見えてくる気がした。
もっとも、これは全部わたくしの推測でしかない。帳面を見たわけでも、誰かに聞いたわけでもない。父の口から出た言葉は「去年、穀物を回してもらった」の一つきりだ。
推測を数字と混ぜてはいけない。母がそう言ったわけではないが、厨房ではそうだった。目分量と、量ったものを同じ帳面に書けば、どちらも信用できなくなる。
わたくしは綴じ本の、いつもとは別の頁を開いた。そこに「わかっていること」と「思っただけのこと」を分けて書いた。
わかっていること。父の帳面にロッシュ商会の受取があった。西向きの補給はロッシュ商会から出ている。補給点の帳面には金の穂の受領がある。補給表の署名欄と父の帳面の背に、同じ印がある。
思っただけのこと。それらが繋がっている。
「リィズさん」
「なに」
「商会に逆らった隊は、どうなりますか」
リィズさんが、そこで初めてこちらを向いた。
「……荷が遅れるわ。事故として」
「では、誰も言わないのですね」
「言って得をする人がいないもの」
◇
その夜、わたくしは綴じ本のいちばん後ろを開いた。
白紙の頁のはずだった。けれど、そこには十行ばかりの文字が並んでいる。
補給点の小屋で、鎖につながれた帳面を写したものだ。
日付、受領者、数量。最後の行の「第八日、受領。金の穂」も、そのまま書き写してある。字の形まで真似ておいた。角の払いの角度と、線の太さが変わらないところまで。
あのとき、なぜ写したのか自分でもよくわからなかった。皆が棚の空を見て呆然としているあいだ、わたくしは壁の帳面をめくって、白紙の頁に十行を書き写していた。手が先に動いていた。
鎖でつないである帳面は持ち出せない。持ち出せないものは、いずれ書き換えられる。屋敷の帳面がそうだった。父が閉じるのが早すぎた帳面も、たぶんそうだ。
だから写した。理由は後から来た。
写しには、証拠としての力はない。誰でも書けるからだ。ダリウス様なら一目で撥ねるだろう。写しと原本が食い違ったとき、信じられるのは原本のほうだと規定に書いてあるにちがいない。
それでも、原本が書き換えられたときに「いつ、何が変わったか」を言えるのは、写しを持っている者だけだった。
◇
火が小さくなってから、その人が隣に座った。
珍しいことだった。この人は座るとき、いつも輪の外側を選ぶ。
「セラ」
「はい」
「八日、保つのか」
「保ちます」
「本当にか」
わたくしは綴じ本の数字を見せた。掘れる量と、食べる量と、その差。
その人はしばらく数字を見て、それから頷いた。
「わかった」
「疑っておられましたか」
「いや。確かめておきたかった」
その人は火に薪を足した。足す手つきが丁寧で、火が消えないところに置いている。
「前は、確かめなかった」
わたくしは黙っていた。
「足りていると聞いて、そうかと言った。それで足りていなかった」
薪が一本、崩れた。
「今日はいい、と言った子がいたな」
「ニコさんです」
「あれを聞いたとき、俺は」
言葉が止まった。止まったまま、その人は火を見ていた。
わたくしは急かさなかった。急かせば、たぶんこの人はまた見張りに立ってしまう。焚火の前で人が黙っているとき、待つほうが早く進むことがある。鍋と同じだ。蓋を開けて確かめるたびに、煮えるのは遅くなる。
薪が芯まで赤くなって、そこから白い灰になるまで、たっぷり数える間があった。
「……八日、頼む」
「はい」
それだけ言って、その人は立ち上がった。歩いていく背中を見ながら、わたくしは綴じ本を閉じた。
閉じてから、もう一度開いて、いちばん後ろの頁に一行だけ足した。
――麦の穂を、丸で囲んだ形。
セラが補給点の帳面を書き写していたことを、ここまで伏せていました。彼女は理由がわかる前に手が動く人で、あとから理由が追いついてきます。第1話で貼り紙を二度読んだのと同じです。
ロッシュ商会の名は第1話の帳面の印から出ています。父が答えなかった夜の意味が、ここで少し変わりました。
次回、査定まであと三日。セラは「同じ荷で」という条件の読み方を決めます。
【今日の遠征飯】根と豆粉の練り物、四日目/制約:掘れる量と食べる量の差が半食ぶん/ひとこと:わずかでも上回っていれば、日数は味方になります。




