第5話 皿を下げるのは、いつもわたくし
六日目の朝から、わたくしは綴じ本の後ろに表を作った。
誰が、いつ器を返したか。それだけを書く表だ。
料理をする人間にとって、返ってくる器は成績表に近い。空になる速さは味の話で、残る量は体調の話で、返す順番は序列の話になる。屋敷にいたころからそうしていた。
六日目の夕餉では、こう並んだ。
一番はニコさんで、三杯。二番がボルドさん。三番と四番は斥候のミルカさんと盾持ちのハンスさんで、この二人はいつも並んで食べて、並んで返してくる。五番がリィズさん、六番がわたくし。
七番がいない。
◇
七日目も、八日目も、同じだった。
あの人は最後になる。最後になってから、器を持って立ち上がる。持っていくのではなく、置いて、それから立つ。
わたくしは表の余白に、別のことを書き足しはじめた。
その人が匙を取る回数。取って、置く回数。
七日目は、取って置くまでが二度あった。八日目は三度。取ってはいるのだ。口に運ぶ手前で止めている。
止める場所が、いつも同じだった。
誰かがまだ食べているあいだは、取る。全員が食べ終わると、置く。
逆だと思っていた。人前で食べられないのなら、皆が食べているうちは箸が進まず、人が減れば食べられるはずだ。
あの人は、その逆をしていた。
◇
八日目の昼、ニコさんが表を覗き込んできた。
「なにこれ。数字ばっかり」
「器が返ってくる順番です」
「そんなの数えてどうすんの」
「わかることがあります。たとえばミルカさんは、坂を登った日だけ二杯になります」
ニコさんが目を丸くした。
「ミルカ、そんなこと言ってた?」
「言っておられません。数えると出ます」
「……すげえな」
ニコさんは表に指を這わせて、それから一つの行で止まった。空欄になっている行だ。
「ここ、隊長?」
「はい」
「ここだけずっと空なんだ」
「はい」
ニコさんは表から指を離した。離してから、なんでもないことのように言った。
「隊長さ、おれが食べてるときは見てるよ」
「見て、とは」
「見てるっていうか、待ってる感じ。おれが二杯目もらいに行くと、ちょっと安心した顔する。気のせいかもだけど」
わたくしは綴じ本を開き直して、その一行を書き足した。
◇
九日目の夕餉で、わたくしは器を配る順番を変えてみた。
いつもは隊長へ最初に出す。それを、最後にした。
結果は同じだった。皆が食べ終わったところで、あの人の器は膝の上で止まった。
「無駄よ」
リィズさんが、火の向こうから言った。
「順番は、四人目の子も試したわ」
「四人目、と申しますと」
「あなたの前にいた炊事番。三月保ったから、いちばん長いわね」
リィズさんは自分の器を洗いながら話している。こちらを見ていない。見ないで話すときのこの人は、少しだけ言葉が多い。
「その子は温かいうちに食べさせようとしたの。だから隊長を先に呼んだ。次の子は、逆に一人にしてあげた。その次の子は、隣に座って一緒に食べようとした」
「どなたも、駄目でしたか」
「駄目だったから、辞めたのよ」
器がぶつかる音が二度した。
「あのね。あなたが今やってることは、みんなやったの。順番も、時間も、献立も。全部やって、全部だめだった。それでも辞めなかった子はいない」
「はい」
「はい、って」
リィズさんが、そこで初めてこちらを向いた。
「なぜ書き留めてるの」
わたくしは綴じ本を閉じた。
「わからないからです」
「わからないことを書いても、わかるようにはならないわ」
「なります」
言い切ってから、少し驚いた。自分の声が思ったより低かった。
「数えれば、揃わないものが見えます。揃わないところにだけ、理由があります」
リィズさんは何も言わなかった。洗い終えた器を布で拭いて、わたくしの籠へ入れた。入れてから、一度だけ息を吐いた。
「……好きになさい」
その夜、薪を割っていたボルドさんの横に座った。斧の音は規則正しい。話しかけてよい合図がどこにあるのか、わたくしはまだ掴めていなかった。
「ボルドさん」
「うむ」
「隊長は、遠征の外ではお食事を」
斧が止まった。止まってから、また同じ調子で動きはじめた。
「街でも同じだ」
「では、ずっとですか」
「三年ほどな」
三年。わたくしが婚約していたのと、同じ長さだった。
「何かが、あったのですね」
ボルドさんは薪を一本立てて、真ん中で割った。割れた面が白い。
「あんたが聞く相手は、俺じゃない」
それきり、斧の音だけが続いた。わたくしも立たなかった。立たずに、割れた薪を積む係になった。
◇
十日目の夜。
わたくしは、器を下げなかった。
あの人が石の上に器を置いて、見張りに立つ、と言って歩いていったあと、わたくしはその器をそのままにした。
布をかけただけだ。虫と埃を防ぐためで、それ以上の意味はないふりをした。
そして、寝床へ入った。
鍋も匙も洗って、片づけて、明日の豆を水に浸けて、それから火を落とした。落としながら、石の上の白い布だけは見ないようにしていた。
毛布に潜っても、目が冴えている。
この十日で、わたくしは自分の献立が悪いのではないと知った。ニコさんは三杯食べるし、ボルドさんは硬くないと言い、リィズさんは数字が合っていると言った。ミルカさんもハンスさんも、残したことは一度もない。
残っているのは一つだけだ。
あの人の器が空にならない理由が、料理の側にない、ということ。
◇
夜半に目が覚めた。
冷えている。山の夜は、毛布を一枚多くしても足りない。わたくしは起き上がって、火の跡へ手をかざした。灰の下がまだ温かい。
それから、石の上を見た。
布は、かかったままだ。
わたくしはそれをめくった。
器は空だった。
匙が、器の底に伏せて置かれている。伏せて置くのは、食べ終わったという印だ。屋敷の使用人たちがそうしていた。誰が教えたのでもなく、食べ終えた人は皆そうする。
空の器を、両手で持った。
冷たい。とうに冷めている。それでも、たしかに空だった。
見張りの方角を見た。木立の影が濃くて、人の姿は見えない。あの人がいつ戻って、いつこれを食べて、いつまた出ていったのかは、わたくしには測れない。
測れないけれど、一つだけ決まったことがある。
この人は、食べられないのではない。
わたくしが見ているところでは、食べられないのだ。
器を胸の前で持ち直した。持ち直しながら、次の疑問がもう出てきていた。
一人でなら食べられる人が、なぜ「一緒に食べること」を、わざわざ条件の一行目に書いたのだろう。
しかも、あの三行のうち、その一行だけが本人の字だったという。
わたくしは空の器を抱えたまま、木立の影をもう一度見た。影は動かない。答えの出ないものを抱えて眠るのは、これで十日目だった。
セラの武器は包丁ではなく、たぶん綴じ本のほうです。彼女は毎日、誰が何番目に器を返したかを書いています。料理人が数える人でもあるというのは、この物語では最後まで効いてくる設定です。
リィズが「四人目の子」の話をしたのは、いじわるではありません。この人は、辞めていった四人ぶんの理由を全部覚えています。
次回、ニコがなぜ三杯食べるのかがわかります。数の話です。
【今日の遠征飯】(記録のみ)/制約:十日目の冷え/ひとこと:伏せた匙は、食べ終わったという印です。




