第4話 日暮れまで、あと半刻
四日目に、山道が崩れていた。
前の晩に降った雨で、斜面の土が街道ごと落ちている。落ちた幅は馬車二台ぶんほどで、迂回するなら谷を一つ回り込むしかない。
「半日、遅れるわね」
リィズさんが地図を畳みながら言った。声に苛立ちはない。この人は、起きたことに腹を立てない。
「日暮れは早いぞ」
ボルドさんが空を見上げた。山に入ると、日は稜線に隠れる。平地の暮れよりも一刻ほど早く暗くなるのだと、昨日教わったばかりだった。
わたくしは頭の中で数を並べ替えた。
到着が半日遅れる。つまり野営に入る時刻も遅れる。火を起こしてから暗くなるまでの時間が、半分になる。
半分になるのは調理の時間だけではない。薪を集める時間も、水を汲みに行く時間も、同じだけ削られる。
「夕餉は、いつもの半分の時間で出します」
「間に合うの」
「間に合わせます。ただ、朝のうちに一つだけ、していただきたいことが」
わたくしは荷から布の袋を出して、乾いた豆を七人ぶん量った。量ってから、水筒の水をその上に注いだ。
「これを、歩きながら運んでいただけますか」
「……水に浸けたまま?」
「はい。豆は火では戻りません。水で戻ります。火はそのあとの仕事です」
リィズさんはしばらく袋を見ていた。それから、無言でそれを自分の荷に括りつけた。
「重くなるわよ」
「水の分だけ重くなります。そのぶん、夜に沸かす水が減ります」
「……差し引きは」
「ほぼ同じです。ですが、時間だけは戻りません」
◇
谷を回り込むあいだ、ニコさんがずっとわたくしの横を歩いていた。
「ねえ、昨日の尾のやつ。あれって毎回できるの」
「毎回はできません。ワイバーンが毎回落ちているわけではありませんので」
「あー、そっか」
ニコさんは残念そうに息を吐いた。それから、思い出したように顔を上げる。
「じゃあ、他にもある? 食えないって言われてるけど、ほんとは食えるやつ」
「いくつかは」
「たとえば」
「たとえば、この道の脇に生えている草の根です」
わたくしは指を差した。細い葉が束になって、斜面に張りついている。
「それ、ただの草じゃん」
「根が太ります。灰汁が強いので、そのまま煮ると舌が痺れます。ですが、灰を混ぜた湯で下茹ですれば抜けます」
「灰。焚火の?」
「はい。灰は捨てるものですが、捨てるものが捨てるものを食べられるようにします」
ニコさんは足を止めて、その草をしばらく見ていた。それから、しゃがんで一株抜いた。
「持ってく」
「重くなりますよ」
「これくらい平気」
前を歩いていたリィズさんが、振り向かずに言った。
「ニコ。あんた、自分の荷を減らしてから拾いなさい」
「減らしたって。減らしたから、そのぶん拾ってるんだよ」
声が跳ねている。ニコさんは、食べ物の話になると声の大きさが変わる。それに気づいてから、わたくしはこの人の器の減り方を数えるようになった。三杯は多いのではなく、この人にとっては当たり前の量なのだろう。当たり前の量が人より多い理由は、まだ聞いていない。
野営地に着いたとき、稜線の上に日が乗っていた。
半刻。それが、わたくしに残された時間だった。
半刻でできることを、頭の中で並べてみる。湯を沸かすまでに、乾いた薪なら四半刻。湿っていればその倍はかかる。豆を戻すには一刻から二刻。干し肉を柔らかくするには、さらにその上に一刻。
足すと、二刻を超えた。半刻には、どうやっても収まらない。
収まらないものは、削るのではなく、置き場所を変えるしかない。豆を戻す時間は朝のうちに歩きながら済ませた。残っているのは、沸かす時間と、煮る時間の二つだけだ。
薪は湿っている。当然だ。昨日の雨が斜面ごと落ちるほど降ったのだから、この山の枯れ枝はどれも水を吸っている。乾いた枝を探して斜面を登れば、そのぶん半刻が減る。探しに行く時間そのものが、いま最も高い買い物だった。
わたくしは火を起こす前に、鍋を三つ並べた。二つは自分の鍋で、一つはボルドさんに借りたものだ。
「三つも要るのか」
「一つで順に煮ると、三倍の時間がかかります。同時に煮れば、一回ぶんの時間で済みます」
「火が回らんだろう」
「回さなくて構いません。沸くまで火にかけて、あとは下ろします」
ボルドさんが片眉を上げた。それでも何も言わずに、湿った薪を割りはじめた。割れば内側が出る。内側は乾いている。この人は言わずに動く。
水を張った鍋に、朝から浸けていた豆を入れた。もう指で潰れるほど戻っている。干し肉を薄く削いで加えた。厚いままでは火が通らないからだ。
沸いた。
沸いたところで、わたくしは三つとも火から下ろした。
「おい」
ボルドさんの声が出た。
「まだ煮えとらん」
「はい。ここからは、毛布で煮ます」
◇
空の荷袋を裂いて内側に敷き、その上に鍋を据えて、毛布で三重に包んだ。上からさらに外套をかぶせる。
「熱を逃がさなければ、鍋は下ろしたあとも煮え続けます。半刻ほど置けば、火にかけ続けたのと同じところまで行きます」
「……そんな話は聞いたことがないわ」
リィズさんが包みの横にしゃがんだ。手のひらを毛布に当てている。
「熱いわね」
「はい。逃がしていないので」
「これ、誰に習ったの」
「母です。冬の朝に、粥を仕込んでから出かける人でしたので」
その半刻のあいだに、わたくしは薪を追加で集め、水を汲み、明日の朝ぶんの豆をまた水に浸けた。火の番をしなくていいというのは、そういうことだ。手が空くのではなく、手を別のところへ回せる。
遠征の献立は、味で決まらない。決めているのは、火と水と時間の三つで、そのどれもが毎日ちがう量しか使えない。同じものを作ろうとすれば必ず足りなくなるし、足りない日に無理をすれば、翌日の分が消える。
だから、その日にあるものから逆に組む。母はそれを「引き算の献立」と呼んでいた。屋敷の厨房では一度も使わなかった言葉だ。
日が落ちきる少し前に、毛布を開いた。
湯気が、まっすぐ上がった。
◇
器は六つ、返ってきた。
その人は、いつもの岩の上に座っている。器は膝の上にあって、匙は縁に置かれたままだった。
ただ、今日は少しだけ違った。
減っている量が、昨日より多い。ひと匙ではなく、三匙ぶんほど。
「グレン様」
「……ああ」
「今日は、火を使っておりません。半分だけ使って、あとは包んで置きました」
その人は器の中を見た。見てから、こちらを見なかった。
「そうか」
「はい」
「うまい」
言うと同時に、その人は立ち上がった。器を石の上に置いて、いつもの方角へ歩いていく。
うまい、と言った人が、置いていった。
わたくしは器を下げて、その重さを手のひらで測った。三匙ぶん軽い。昨日よりは軽い。
軽くなった分だけ、わからないことが増えていく。
鍋を毛布で包む調理は、実際に古くからある方法です。火を長く焚けない場所では、熱を「足す」より「逃がさない」ほうが効きます。セラの職能は魔法ではなく、そういう地味な引き算でできています。
次回、セラは器を下げるのをやめてみます。置いたまま離れたら何が起きるのか、それを確かめるためです。
【今日の遠征飯】豆と干し肉の毛布煮/制約:日暮れまで半刻と、濡れた薪/ひとこと:火は足すものではなく、逃がさないものです。




