第29話 一人で済ませようとする
市の照会の結果が出たのは、その翌朝だった。
三つの区で、この七日に医者にかかった者は十一人だった。うち八人が怪我で、二人が高齢者の持病、残る一人は乳飲み子の熱。草の根で腹を下した者は、一人もいない。
ダリウス様はその紙を三通写して、一通を市の役所へ、一通をギルドへ、一通をわたくしに渡した。
「集会所の板は、昼までに外れます」
「ありがとうございます」
「礼は要りません」
その方は羽根ペンを置いた。
「ただ、噂は消えません。記録は読む人だけが読みます」
◇
その日、南門の外は人が増えていた。板が外れる前から、十軒ほどの家が軒先で鍋を出していた。灰の袋がそれぞれの戸口に置いてある。
最初に練り物を受け取った女の子が、四人の子どもに囲まれて手を動かしていた。
「二回茹でるの。一回だと痺れるから」
「灰は」
「これ。焚いたやつなら何でもいい」
わたくしは、少し離れたところで見ていた。教えることは、もう残っていなかった。
女の子の手つきは、わたくしのものとは違っていた。刻み方が粗く、そのぶん速い。灰の量も目分量で、わたくしなら量る場面で量らない。それで通っている。
通るなら、そのほうがいい。厨房の外で使う技は、正確さより続けやすさで残る。母が屋敷で使わなかったやり方ばかりを覚えていた理由が、少しわかった気がした。あの人はたぶん、屋敷の外で通る技を集めていた。集めて、使う場所のないまま、娘に一つずつ渡していた。
◇
「セラさん」
ニコさんが横に来た。
「数えた。今日で二千四百人」
「二日で倍以上ですね」
「板を打ったのが逆効果だったっぽい。何を隠したんだって言われて、みんな見に来た」
わたくしは記録の紙を畳んだ。
噂を消せなかった代わりに、噂が人を連れてきた。読む人だけが読む記録より、板を打った音のほうが遠くまで届いたことになる。思っていたのと違う形で進んだ。進んだのだから、それでよかった。
◇
夕方、市場の値が動いた。麦が四倍から三倍半に下がった。豆は据え置き。
「下げたわね」
リィズさんが言った。
「はい。ですが、これは負けを認めた値ではございません」
「どういうこと」
「様子を見ておられます。三倍半で売れ行きが戻れば、また上げます」
わたくしは値札を見上げた。
「本当に効いたかどうかは、来月にならないとわかりません」
リィズさんは値札を見上げたまま、鼻から息を抜いた。
「あなた、喜ばないのね」
「喜ぶのは、来月にいたします」
◇
その夜、宿へ戻ったのは遅かった。三つの区を回って、集会所で三度実演をして、記録を書いて、それから戻った。足の裏が痛い。
厨房の灯りがついていた。中を覗くと、その人が立っていた。鍋の前だ。器が一つ、卓に置いてある。
一つだけだった。
わたくしは戸口で止まった。
器が一つ、というのが目に入ったのは、九十日ぶんの癖だ。数えるつもりがなくても数えてしまう。この宿に泊まっているのは四人。ニコさんとリィズさんは今夜、南門の外の家に泊まっている。だから、二人ぶんでよかったはずだ。
その人はこちらに気づいて、少しのあいだ動かなかった。
「遅かったな」
「はい」
「先に食っておく」
器は一つ。鍋の中を見た。空だった。
「グレン様」
「なんだ」
「一人ぶんしか、お作りになっていませんね」
その人は器を持ち上げた。持ち上げてから、また置いた。
「……粉が少なかった」
「粉は、宿の棚に三袋ございます」
「そうか」
「わたくしが確かめました。今朝」
その人は答えなかった。答えないときの、この人の立ち方を知っている。踵に体重が乗っている。次に見張りに立つときの立ち方だ。
「値が下がりましたね」
わたくしは話を変えた。
「四倍から三倍半へ。市場で見てまいりました」
「ああ」
「ですが、まだ足りません。三倍半でも払えない家がございます」
「そうだな」
「南門の三つの区で、二千四百人が作れるようになりました。王都は十万です」
その人は鍋の底を見ていた。
「足りんな」
「足りません」
「足りないものを配っているとき」
わたくしは棚から粉の袋を下ろした。
「作る側は、自分のぶんを減らします」
「……」
「減らしても誰も気づきません。減らした人間が黙っているからです」
わたくしは鍋に水を入れた。入れながら、背中で言った。
「三年前も、そうだったのではありませんか」
答えはなかった。わたくしは火を起こして、粉を溶いた。二人ぶんだ。
「峠を歩いておられた二日間、何を召し上がりましたか」
「……最後の一袋を食った。それだけだ」
「では、二日間、何も」
「走っていた」
「はい」
「食う必要は無かった」
わたくしは匙を止めた。
「必要は、ございました」
◇
「あの一袋は、七人が押し出したものです」
鍋の中で、粉が水を吸っていく。
「押し出した七人は、あなたに走ってほしかったのです。走るには、二日ぶん要ります。一袋では足りません」
「足りるさ。現に着いた」
「着いてから、倒れられたのではありませんか」
その人の肩が動いた。
「……リィズか」
「いいえ。ボルドさんです」
薪を積む係をしていた夜に、この人は一つだけ言った。あんたが聞く相手は俺じゃない、と。その前に、もう一つ言っていた。助けを呼んで、そのまま三日寝込んだ、と。
「グレン様。三年前、足りなかったのは荷ではございません」
わたくしは鍋を火から下ろした。
「あなたの分が、足りていませんでした」
◇
その人は、長いあいだ何も言わなかった。
わたくしは器を二つ出して、両方に注いだ。片方をその人の前に置いて、もう片方を自分の前に置いた。
「二人ぶんございます」
「……もう食った」
「はい。ですから、これは余りです」
鍋を傾けて見せた。まだ底に少し残っている。
「三人ぶん作りましたので」
その人が、こちらを見た。
「……わざとか」
「わざとです」
◇
「今日は、いい」
その人はそう言った。
ニコさんが同じことを言った夜のことを思い出した。あのとき、この人はその言葉を聞いていた。聞いて、何かを言いかけて、やめた。
「グレン様」
「なんだ」
「今日はいい、はニコさんの言葉です」
その人の手が止まった。
「あの方は、明日ぶんを残すために仰いました。あなたは、何を残そうとなさっているのですか」
その人は答えなかった。答えない代わりに、器に手を伸ばした。伸ばして、途中で止めて、それから鍋のほうを見た。底に残っている分を、たしかめている。
わたくしは何も言わずに、自分の器の中身を先に半分ほど飲んだ。飲むところを見せた。
鍋の底には、まだ残っている。
その人の匙が、動いた。
この部でいちばん深い谷を、最終話の一つ手前に置きました。城壁で全部話した翌日に、この人は一人で食事を済ませようとします。前に進んだ人が、次の日に元へ戻るのは珍しいことではないと思っています。
三年前に足りなかったのは荷ではなく、この人の分でした。それを言えるのは、九十日ぶんの器の数を書いてきた人だけです。
次回、麦の値が戻ります。そして、契約書の一行目の話になります。
【今日の遠征飯】三人ぶんの粥(二人で食べる分)/制約:わざと/ひとこと:足りないものを配るとき、作る側は自分のぶんを減らします。




