第30話 一緒に、食べたい
ひと月後、麦の値が平年に戻った。
三倍半から二倍へ、二倍から一・三倍へ、そして元の値へ。三段で下りた。わたくしは市場の値札の前で、それを綴じ本に書き取った。
「戻ったわね」
リィズさんが横で言った。
「戻りました」
「勝ったってこと?」
「いいえ」
わたくしは値札を指した。
「値が戻ったのは、こちらが二割を減らしたからだけではございません。北の商会が二つ、西へ荷を入れはじめました。売れ残りが出はじめたので、道が空いたのです」
「じゃあ、あなたのおかげじゃないの」
「半分ほどでしょうか」
「半分もあれば十分よ」
リィズさんは肩をすくめた。
「あなた、いつも半分半分って言うわね」
「半分は、確かめられる量ですので」
◇
南門の外の三つの区では、いまも練り物が焼かれている。
値が戻っても、やめる家は少なかった。麦を二割減らせば、そのぶんが手元に残る。残った分で、子どもに靴を買う家があった。やめた家もある。値が戻ったのだから当然だ。まずいものを好んで食べる人はいない。
それでも、やり方は残る。次に値が上がったとき、もう一度やればいい。一度覚えた手つきは、使わない年があっても消えないと母が言っていた。
消えないものを配ったのだから、減りようがない。あの帳場でそう言ったのは、半分は強がりだった。いまは、半分より少し本当になっている。
やり方を知っている人は、いまは五千人を超えている。数えているのはニコさんだ。あの人は救貧の帳面に自分で欄を足して、教えた人と教わった人を線で結んでいる。
「これ、根っこの地図みたいだね」
そう言って笑っていた。
◇
ヴァルガンさんには、一度だけ会った。市場で、荷馬車の脇に立っておられた。荷は動いている。
「値を戻されましたね」
「戻しました」
その方は上着の袖を直した。
「北の商会が入りましたのでな。競う相手がいれば、値は下がります」
「入れたのは、どちらでしょう」
「さあ」
その方は笑わなかった。
「ただ、この一月で分かったことがございます。倉に置いていないものは、こちらの値では動きません」
「はい」
「厄介ですな」
「はい」
その方は荷馬車のほうへ歩きだして、一度だけ振り返った。
「セラ・ヴィンター殿」
「はい」
「お父上の商いに、南の産地の縁がございますな」
「ございます。三代ぶんです」
「あれは、うちの倉では買えません」
その方は頭を下げた。
「取引の場所は、いつでもお出しします。取引の多い順に、ではなく」
わたくしも頭を下げた。
この方は謝らない。値を下げただけだ。それでも、下げたのは事実だった。
◇
次の遠征は、二十日後に決まった。行き先は東。地図には湿地の先までしか線が引かれていない。その先は、白いままだ。
受け渡し所で補給を検めているとき、東から戻ってきた隊とすれ違った。荷が軽い。長い旅から帰ってきた隊の荷は、こういう軽さになる。
その隊の一人が、腰の袋から何かを出してこちらへ寄越した。
実だった。握り拳ほどの大きさで、皮が硬い。赤くも青くもない、鈍い緑をしている。
「東の谷で拾った」
「これは」
「わからん。あっちの連中は食わんそうだ」
「食べないのですか」
「食えないんだと。だが、あんたなら知ってるかと思ってな」
わたくしは実を両手で持った。重い。中に水が入っている重さだ。皮に爪を立てると、白い汁が出た。
その汁を指の先で伸ばして、匂いを嗅いだ。草の根に似ている。灰汁の匂いだ。抜けるかもしれない。抜けなければ、そこまでのことだ。
「頂いてもよろしいですか」
「持ってけ。捨てるつもりだった」
わたくしはその実を布に包んで、荷の底へ入れた。母の塩壺の隣だった。
◇
その夜、宿の厨房で二人ぶんの粥を炊いた。三人ぶん作って、二人で食べる。この一月で、それが決まりになっている。
卓に器を二つ並べたところで、その人が入ってきた。
「今日は俺が作る」
「もう炊きました」
「……早いな」
「はい」
その人は卓の前に座った。座ってから、鍋の中を見た。見て、それから、こちらを見た。
「セラ」
「はい」
「もう、確かめなくていい」
わたくしは匙を持つ手を止めた。
「鍋を見ないでも、食えるようになった」
「いつからでしょう」
「三日ほど前だ。気がついたら食っていた」
その人は自分の器を持ち上げた。持ち上げて、そのまま口へ運んだ。鍋のほうを、一度も見なかった。わたくしは、それを見ていた。
◇
「セラ」
「はい」
「契約は、あと八月ある」
「はい」
「八月経ったら、書き直したい」
わたくしは器を置いた。
「書き直す、と申しますと」
「一行目を消す」
一行目。
――契約の期間は一年とする。
「期間を、消されるのですか」
「消す」
「二行目は」
「残す」
その人は器を卓に置いた。
「三行目も残す。ただ、書き方を変えたい」
「どのように」
その人は、しばらく黙っていた。黙っているあいだ、鍋の中で湯がわずかに音を立てていた。宿の厨房は狭くて、二人が座ると膝が触れる。
「条件じゃなく、書きたい」
「はい」
「申告でもなく」
「はい」
その人は顔を上げた。目が合った。逸らさなかった。
「一緒に、食べたい」
◇
わたくしは、その言葉をしばらく聞いていた。
四月ほど前、剥がれかけた紙の一行目に同じ意味の言葉が書いてあった。あれは条件だった。四十日ぶんの雨を吸って、誰にも剥がされずにいた条件だ。
わたくしはあの日、それを二度読んだ。二度読んで、意味がわからないまま剥がした。わからないものを抱えて帰って、その夜に荷を数えた。服が三枚と、母の塩壺と、綴じ本が一冊。刺繍の道具は入れなかった。あのとき入れなかったものは、いまも要らない。
同じ言葉が、今度は望みとして置かれた。置いたのは同じ人で、置かれた場所だけが違う。
「グレン様」
「なんだ」
「わたくしの荷に、東の実が入っております」
「実」
「東の方々が、食べないものだそうです」
わたくしは立ち上がって、鍋のほうへ行った。
「灰汁が強うございます。抜けるかどうか、まだわかりません」
「抜けなかったら」
「抜けるまで試します。二十日ございます」
わたくしは鍋を火にかけ直した。
「それから、東へ参ります」
「行くのか」
「参ります。地図の白いところに、食べられるものがあるかどうかを見に」
その人が立ち上がる音がした。
◇
「セラ」
「はい」
「返事を聞いていない」
わたくしは鍋の縁に手を置いた。振り向いて、答えた。
「三人ぶん作っております」
「……それは」
「一人ぶんは、いつも余らせております。北の遠征の最後の夜から、そう決めております」
わたくしは器を三つ、卓に並べた。
「明日からは、四人ぶん作ります」
四月ほど前、剥がれかけた紙の一行目に「雇用主と、毎食を共にすること」と書いてありました。あれは条件で、そのあと申告だと分かって、最後に望みになりました。置いたのは同じ人で、置かれた場所だけが違います。
セラの返事を「はい」にしなかったのは、この人が言葉より先に鍋を火にかける人だからです。四人ぶんの意味は、たぶん一つではありません。
東の谷で拾った実は、まだ誰も食べていないものです。灰汁が抜けるかどうかは、二十日かけて試すことになります。次は、その地図の白いところから始めます。
【今日の遠征飯】三人ぶんの粥(二人で食べる分)/制約:宿の狭い厨房/ひとこと:明日からは四人ぶんです。
ブックマークと評価は、次の遠征の薪代に充てさせていただきます。東は湿地より遠いそうなので、少し多めに積んでまいります。




