第28話 最後の一袋
翌日の夕方、その人はわたくしを城壁の上へ連れて行った。
王都の北の壁だ。見張りの兵が二人いるだけで、ほかに人はいない。壁の向こうに街道が伸びて、その先に山が見える。
「あれが北の峠だ」
「はい」
「三年前、あそこで十一人が動けなくなった」
その人は壁に肘をついた。風が強い。
「話す、と言ったな」
「伺います」
◇
「補給点が空だったのは五日目だ」
その人は前を向いたまま話しはじめた。
「二つ目まで十日。荷は六日ぶん。引き返せば八日。俺は進むと決めた」
「はい」
「決めたのは俺だ。誰も反対しなかった」
「はい」
「六日ぶんを十日に伸ばすのに均等に割った。それも俺が決めた」
風の音がした。
「八日目に二人が歩けなくなった。九日目にもう二人だ」
「四人とも荷の重い者だった」
その人は指で壁の石をなぞった。
「ボルドがまだ隊にいた。一番重い荷を持っていて、四人目の手前で膝をついた」
「ボルドさんも」
「あいつは戻った。戻れなかったのは若いのが二人だ」
「お名前を伺っても」
「トマスとリオ。十九と二十だった」
その人は初めてこちらを見た。
「ニコと、そう変わらん」
わたくしは何も言わなかった。言えることが思いつかなかったし、思いついたとしても、たぶん言わないほうがよかった。
トマスとリオ。名前を聞いてしまったので、もう数字には戻せない。四人倒れて二人戻らなかった、と聞いていたときは、それは数だった。数なら扱える。均等に割るのが正しいかどうかも、数のうちなら計算できる。名前がつくと計算が止まる。
わたくしは綴じ本を毎日つけながら、七人を数字で扱ってきた。ニコさんは三杯、ミルカさんは坂の日に二杯。そう書いてきた。書いていたものに全部名前がついているという当たり前を、風の中で思い出していた。
「十日目の朝に荷が最後の一袋になった」
「一袋」
「豆の粉が一袋の底に少しだ。七人ぶんには足りん。一人ぶんなら足りる」
風が強くなった。
「リィズが言った。あんたが食べて走って、助けを呼べと」
「はい」
「俺は断った」
「断ったのですか」
「三度断った」
その人は壁から手を離した。
「四度目にリィズが袋をこっちへ押してきた。押して、こう言った」
声が、少し低くなった。
「――ここにいる全員があんたに食べてほしいと思っている。それでも断るなら、自分の気分のために七人を殺すことになる」
わたくしは息を止めた。
「それで、食べた」
「はい」
「食べて走った。二日で助けを呼んで、五人は助かった」
「正しい判断でした」
「そう言われる」
その人は頷いた。
「みんなにそう言われた。ボルドにもリィズにも、助かった連中にも。正しかった、あんたのおかげだと」
「はい」
「正しかったんだろう。いまでもそう思う」
風がやんだ。急にやむと、耳が痛くなる。
「ただ、あの一袋を食っている間ずっと、俺は七人に見られていた」
「見られながら、食べた」
「ああ」
その人は自分の手を見た。
「十九と二十の二人もまだ生きていた。動けんだけだ。目は開いていた」
わたくしは壁の石を握った。
「あの二人が見ている前で最後の一袋を食った」
「……はい」
「その二日後に二人とも死んだ」
◇
「それから、人前で食えなくなった」
その人は淡々と言った。淡々と言えるようになるまでに、三年かかったのだと思った。
「街でも駄目だ。一人なら食える。誰かが見ていると手が止まる」
「見ていると、あの二人を思い出されますか」
「いや」
その人は首を振った。
「思い出すんじゃない。確かめてしまうんだ」
「確かめる」
「この飯は誰の分かを勝手に確かめる。誰かの分なら手が動かん」
◇
わたくしは、そこでようやく全部が繋がった。
余っていれば、誰の分でもない。誰の分でもないものなら、食べても誰も減らない。だからあの人は、鍋の中身が減ったかどうかではなく、残っているかどうかを見ていた。九十日、毎晩。
四人の炊事番は、順番を変え、時間を変え、献立を変えた。どれも「この人に食べさせる」ための工夫だ。工夫すればするほど、その一杯は誰かが手をかけた特別な一杯になる。特別な一杯は、いちばん食べにくい。
わたくしがやったのは逆だった。余らせて、誰の分でもない状態を作って、そこに置いただけだ。工夫を減らしたほうが効いた。偶然だったとは思わない。ただ、思いついた理由は帳面だった。器の返る数が六つで止まっていたから、七つ目の置き場所を作っただけの話だ。
「グレン様」
「なんだ」
「契約書の三行目を、なぜお書きになったのですか」
◇
その人は、しばらく黙っていた。
「二年、炊事番を置かなかった」
「はい」
「置けば、あの日の穴が埋まると誰かが言うと思った。埋まらん。埋まらんのに埋まったことにされるのが嫌だった」
「ですが、お置きになった」
「三年目の遠征で、ニコが倒れかけた」
その人は壁の向こうを見た。
「あいつは食える日に食っておく癖がある。あの日は食える日だと思って三杯食った。翌日から二日、荷が届かなかった」
「三杯ぶん、早く尽きたのですね」
「誰も数えていなかったからだ」
◇
「それで、募集を出した」
「はい」
「ギルドの書式には条件の欄がある。三行目は空でいい欄だ」
その人は少し息を吐いた。
「空にしておけば誰でも来る。誰でも来れば、また誰も数えん」
「では、なぜ食事のことを」
「……あれは、条件じゃない」
風が、また吹きはじめた。
「あれは、こっちの申告だ」
◇
「申告、と申しますと」
「俺は人前で食えん。それを先に書いておけば、来る人間は最初から知っている。知ってて来た人間なら俺のせいで辞めることにはならん」
「四人の方は、辞められました」
「辞めた。全員、自分が悪いと言って辞めた」
その人の声が、そこで初めて詰まった。
「食わせられなかったのは自分のせいだと言って、四人とも頭を下げて出ていった」
わたくしは目を閉じた。誰も悪くない。悪くないのに、四人が謝って辞めた。
◇
「セラ」
「はい」
「お前は、謝らなかったな」
「はい」
「最初の日から一度も、食わせられなくてすまないと言わなかった」
わたくしは目を開けた。
「わたくしの献立の問題ではないと途中でわかりましたので」
「そうだ」
その人はこちらを向いた。
「だから、言えた」
「何をでしょう」
「余っております、と」
風が、二人の間を抜けていった。
壁の下で、王都の灯りが一つずつ増えていく。閉まった食堂の並びにも、二軒ぶんだけ火が入っていた。三日前は一軒だった。わたくしは数を書き留める癖で、指を折った。折ってから、今日は書かなくていいかと思って下ろした。
「グレン様」
「なんだ」
「明日、南門の外へご一緒いただけますか」
「何がある」
「千百人が、練り物を焼いております」
その人は峠のほうを見ていた。見ていた顔のまま、短く答えた。
「行く」
三行目は条件ではなく申告でした。「俺は人前で食えない」と先に書いておけば、来る人間は最初から知っている。知って来た人なら自分のせいだと思わずに済む——そう考えて書いた一行で、四人が「自分のせいだ」と謝って辞めていきました。
第1話で職員が「書き足したのも、ご本人の字でした」と言った一行の意味が、ここでようやく出ました。
次回、王都の穀物が動きます。ただし、その夜に一度だけ、この人は後ろへ戻ります。
【今日の遠征飯】(作らず)/制約:城壁の上の風/ひとこと:余っているものは、誰の分でもありません。




