第27話 契約は、あと九月あります
噂が流れはじめたのは、その三日後だった。
草の根を食べると腹を下す。子どもが寝込んだ家がある。
わたくしが南門の外へ着いたとき、集会所の戸には板が打ちつけてあった。市の役人が二人立っていた。
「衛生上の理由で、当面ここは使えません」
「どなたが寝込まれたのでしょう」
「そこまでは聞いておりません」
「では、確かめてから閉めていただけますか」
役人の方は困った顔をした。困っただけで、板は外れなかった。
◇
三つの区を回った。寝込んだ子どもは、いなかった。誰も見ていない。誰も名前を知らない。ただ「聞いた」と言う人が十人ほどいた。
噂というのは、こういう形で来る。屋敷でも同じだった。誰かが物を盗ったという話が立つとき、盗られた物を見た人はいない。
厄介なのは、否定する側に手間がかかることだ。「寝込んだ子はいない」と言うには、三つの区の全部の家を回らなければならない。「寝込んだ子がいる」と言うのは、ひと言で済む。この差が、噂の強さの正体だと思っている。
ニコさんが救貧の帳面を持ってきて、地図の上に印をつけていった。
「噂を聞いたって言った人、この順で並んでる」
「順、とは」
「東から西。市場の側から順に、一日ずつずれてる」
わたくしは印を見た。たしかに、きれいに並んでいた。
人の口から出た噂は、こんなに真っすぐ進まない。井戸端で聞いた話は井戸の周りに広がるし、市場で聞いた話は買い物の道筋を辿る。どちらも枝分かれして、あちこちで途切れる。一日ずつ東から西へ順に届くのは、誰かが順に歩いたのだ。歩いた人は、たぶん三日ぶんの日当をもらっている。
◇
「市場の側から、とは」
「穀物の店が並んでるとこ」
ニコさんは指で線を引いた。
「ここから南門まで、ちょうど三日。三日前に市場で流れたやつが、いま端っこまで届いてる」
「発した方は、わかりますか」
「わかんない。けど、最初に聞いたって言ってる人が三人いる」
「その三人は」
「全員、穀物屋の手伝い」
◇
その日の夕方、市場でヴェラさんに会った。前掛けをして、木箱を運んでいた。銀のものは何も身につけていない。
「あら」
「お仕事ですか」
「下働きよ。言ったでしょう」
その方は木箱を下ろして、腰を伸ばした。
「噂のこと、聞いた?」
「はい」
「あれ、三日前の朝に、うちの店の裏で誰かが話してたわ」
「どなたでしょう」
「顔は知らない。ただ、上着が街のものじゃなかった」
ヴェラさんは前掛けで手を拭いた。
「あなた、証拠が欲しいんでしょうけど、これは証拠にならないわよ」
「なりません」
「じゃあ、どうするの」
「食べます」
「……は?」
「わたくしが、皆さんの前で食べます」
その方は目を丸くした。
「それで噂が消えると思ってるの」
「消えません。ですが、寝込んだ子がいないことは示せます」
「示せる?」
「三つの区で千百人が食べております。三日前から今日まで、医者にかかった方は一人もおられません。市の記録に残ります」
ヴェラさんは、しばらく黙っていた。
「……あなた、本当に数えるのね」
◇
ダリウス様に会いに行ったのは、その夜だった。ギルドの二階で、この方はまだ卓についていた。
「市の記録を、閲覧できますか」
「医療の記録ですか」
「はい。三つの区の、この三日ぶんを」
ダリウス様は羽根ペンを置いた。
「ギルドの権限ではありません」
「では、無理ですか」
「市の役所に、規定の照会という形で出せます。半日かかります」
その方は紙を一枚引き寄せた。
「ただし、わたしが出せるのは照会だけです。結果がどうであれ、噂は止まりません」
「存じております」
「それでも出しますか」
「出していただきます」
ダリウス様は書式を書きはじめた。書きながら、顔を上げずに言った。
「セラ嬢。一つ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「わたしは、あなたを家庭的ではないと申しました」
羽根ペンの音が続いた。
「あれは、間違いではありませんでした」
「はい」
「規定の意味で申せば、あなたは家庭に収まる方ではない。いまも思います」
その方は紙を裏返した。
「ですので、収まらない方に収まれと言ったのが間違いでした」
わたくしは、何も言わなかった。
この方は謝らない。三年間で知っている。いま言ったのも、たぶん謝罪ではない。記録の訂正だ。間違った数字を見つけたので、線を引いて書き直しただけ。
それでいいと思った。この方には、それが誠実の形なのだろう。
「照会は明朝に出します。結果は明後日です」
「ありがとうございます」
「礼は要りません。規定です」
◇
宿へ戻ると、その人が階段の下にいた。
「遅い」
「申し訳ございません」
「食ったか」
「……まだです」
その人は黙って厨房のほうへ行って、器を二つ持って戻ってきた。中身は湯と練り物だ。前より焦げていない。塩も控えめだった。
「上達なさいましたね」
「指の先ほど、と言われたからな」
二人で階段に座って食べた。宿の廊下は狭くて、誰かが通るたびに膝を寄せた。
◇
「セラ」
「はい」
「契約は、あとどれくらいだ」
わたくしは指を折った。
「九月ほどです」
「九月で、終わるのか」
「終わります。書いてございますので」
その人は器を膝に置いた。
「終わったら、どうする」
リィズさんに同じことを聞かれたのは、西の遠征のときだった。あのときは答えられなかった。いまは答えられる。
「続けます」
「契約なしでか」
「契約は、遠征に帯同するためのものです。作り方を配るのに契約は要りません」
「……そうか」
その人は器の底を見ていた。
「では、遠征のほうは」
「遠征のほうは」
わたくしは言葉を探した。探しているあいだ、階段の下を人が通った。通ってから、また静かになった。
「あちらは、契約が要ります」
「そうだな」
「一年で切れます」
「切れるな」
◇
二人とも、しばらく黙っていた。わたくしは器を持ち上げて、残りを飲んだ。焦げていない練り物は、味が薄い。薄いほうが飲みやすかった。
「グレン様」
「なんだ」
「あの契約書は、三行でした」
「ああ」
「三行目だけ、ご自分の字でお書きになったと伺いました」
その人の手が止まった。
「……誰に聞いた」
「ギルドの職員の方です」
わたくしは器を置いた。
「一年で切れる書き付けに、なぜご自分で書き足されたのか、まだ伺っておりません」
廊下の灯りが、風で一度揺れた。
その人はすぐには答えなかった。答えないのはいつものことだ。ただ、席を立たなかった。九十日と少しのあいだ、この人は答えない代わりに必ず立った。見張りに立つ、あとでいい、今日はいい。立たずに座っている、というだけで、返事の半分は聞こえた気がした。
「……明日、話す」
「はい」
「今日ではなく、明日だ」
「承知いたしました」
わたくしは器を二つ持って立ち上がった。洗い場は一階の奥にある。階段を降りながら、明日の献立を考えた。何を作るかではなく、どれだけ余らせるかを。
ダリウスの「収まらない方に収まれと言ったのが間違いでした」は謝罪ではありません。この人にとっては記録の訂正です。間違った数字を見つけたので線を引いて書き直した、それだけ。セラはそれでいいと思っています。
噂が「東から西へ一日ずつ」きれいに並ぶのは、人の口から出た噂の進み方ではありません。ニコが地図に印を打つと、それが見えます。
次回、三行目の理由を聞きます。あれは条件ではありませんでした。
【今日の遠征飯】湯と練り物(作:グレン・アーレンス、二度目)/制約:宿の狭い階段/ひとこと:焦げていないほうが、味は薄うございます。




