第26話 お父上と同じですな
ロッシュ商会の倉は、西門の外にあった。
石造りの建物が四棟。屋根が高い。荷馬車が二十台は並べられる前庭があって、そこに人はいなかった。荷が動いていないからだ。
倉の壁に手を当てると、石が冷たい。分厚い壁は中の温度を保つ。保てば穀物が持つ。持てば、いつ出すかを選べる。この壁そのものが商いなのだと、触ってみて初めてわかった。
うちの家には、この壁がなかった。借りていた。借りている壁の中に三代ぶんの荷を置いて、それで商いをしていた。
「入るのか」
グレン様が横に立った。峠から戻って二日目だ。
「はい」
「何をしに」
「値を上げないでいただきに参ります」
「聞かんだろう」
「聞きません。ですが、聞かなかったことを確かめに参ります」
◇
ヴァルガンさんは、二棟目の帳場にいた。卓の上に帳面が三冊。羽根ペンが二本。井戸の縁で見たときと同じ上着を着ている。
「これはこれは」
その方は立ち上がって、軽く頭を下げた。
「南門のほうで、面白いことをしておられるとか」
「草の根を茹でております」
「ええ。聞いております」
◇
「値を下げていただけませんか」
わたくしは先に用件を言った。
「下げられません」
「なぜでしょう」
「仕入れが上がっておりますので」
「西の作は平年並みと伺いました」
ヴァルガンさんは笑った。
「よくお調べで。ですが、値は作柄だけでは決まりません」
「では何で決まりますか」
「買う方がいくらまで出すかで」
その方は帳面を一冊開いた。
「値というものは、こちらが決めているようで決めておりません。四倍で買う方がいるから四倍なのです。誰も買わなければ明日には元に戻ります」
「買わなければ、飢えます」
「ええ。ですから買われる」
わたくしは卓の上の帳面を見た。数字が並んでいる。逆さから見ても、桁が読めた。
「五年前まで西の商会は三つか四つあったと伺いました」
「ございました」
「いまはこちらだけです」
「はい」
「潰されたのですか」
ヴァルガンさんは羽根ペンを置いた。
「買いました」
「買った」
「二つは買い取りました。一つは倉を借りていただけでしたので、賃料を上げたら出ていかれました。残る一つは荷を回さなかったら自分から畳まれました」
「それは、潰したと申します」
「規定には触れておりません」
同じ言葉だった。この三月で、三人目に聞いた。
◇
「ヴィンター子爵家のことを、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「うちはその三つか四つのどれかと取引しておりましたか」
ヴァルガンさんの手が、帳面の上で止まった。止まったのは一瞬だ。すぐに動いた。
「よくご存じで」
「いま、わかりました」
わたくしは、そこで初めて座らせていただいた。
「香辛料の荷を置いていた倉は以前、別の商会のものだったのですね」
「そうです。わたくしどもが買い取りました」
「買い取ったあと賃料を上げられましたか」
「上げました。相場に合わせて」
「うちは、払えなかった」
「払っていただきました。ただ、そのために穀物をお買いになりました」
その方は帳面を閉じた。
「わたくしどもは無理に売っておりません。倉の場所は取引の多い順にお出しする。それだけの決まりをお父上に申し上げただけです」
◇
三年前の赤い数字が、目の前に並んだ。
父は倉を失いたくなかったのだろう。倉を失えば荷が置けず、荷が置けなければ香辛料の商いが止まる。ヴィンター家は南の産地に三代ぶんの縁がある。その縁だけが、うちの持ち物だった。
だから、扱わない穀物を買っている。買って、売れずに、置き場所に困って、引き取ってもらうのにまた金を払う。その一年で、帳面の右端が赤くなっていた。
わたくしはあの夜、帳面の背の印を見つけて「これは」と聞いた。父は「去年、穀物を回してもらった」とだけ答えた。嘘ではない。回してもらったのは事実だ。ただ、そのあとに続く十行ぶんを、父は言わなかった。
言わなかったのは、言えば娘が動くと思ったからかもしれない。動いて、何もできずに終わるのを見たくなかったのだろう。どちらにしても、聞かなかったのはわたくしだ。
「父は、それを説明いたしませんでした」
「でしょうな」
「なぜでしょう」
「説明したところで、お嬢様に何ができましょう」
◇
その言葉を、わたくしは正面から受け取った。
三年前のわたくしには、たしかに何もできなかった。麦の値も、倉の賃料も知らない。刺繍の時間に厨房へ逃げて、乾物の戻し方を覚えていただけの娘だ。父の判断は、その意味では正しい。
正しい判断だったからといって、良い判断だとは限らない。この三月で、それも覚えた。規定に沿っていて、筋が通っていて、それでも人が倒れることがある。
「ヴァルガンさん」
「はい」
「三年前のわたくしには何もできませんでした」
「ええ」
「いまは少しできます」
わたくしは荷から練り物を一枚出して、卓に置いた。
「二割です」
その方は練り物を見た。手に取らなかった。
「二割とは」
「これを食べる家では麦を買う量が二割減ります。南門の外の三つの区で、いま千百人ほどが作り方を知っております」
「千百人。十万のうちの千百人ですな」
「はい。三日前は三十人でした」
帳場から音が消えた。
「三十人が三十人に教えました。その三十人がまた教えております」
◇
ヴァルガンさんは、初めて練り物に触れた。持ち上げて、匂いを嗅いで、それから置いた。
「まずそうですな」
「まずうございます」
「これを、王都の民が食べると」
「全員は食べません。半分も食べません。ですが二割ぶんは買わなくなります」
「二割で、値は崩れませんよ」
「崩れません」
わたくしは頷いた。
「ですが来年も再来年も残ります。これは倉に置いてありません。人の頭の中に置いてございます」
◇
その方は、わたくしの顔をしばらく見ていた。井戸の縁で見たときと、目つきが違った。
「セラ・ヴィンター殿」
「はい」
「あなたは数えるだけでは足りぬと申し上げましたな。積む場所と運ぶ道が要ると」
「伺いました」
「積む場所を頭の中になさいましたか」
「そういうことになります」
ヴァルガンさんは椅子に深く座り直した。
「――それは、買い取れませんな」
わたくしは立ち上がって、頭を下げた。
「値のこと、お考えいただけますか」
「考えません」
「承知いたしました」
倉を出ると、日が傾いていた。石の壁が長い影を落としている。グレン様が前庭で待っていた。
「どうだった」
「聞いていただけませんでした」
「では、無駄だったな」
「いいえ」
わたくしは荷を担ぎ直した。
「聞かなかったことを、あの方ご自身の口から伺いました。これで、次に何が起きても、知らなかったとは言えなくなります」
その人は少し笑ったようだった。
「お前は、いつもそれだな」
「順番でございますので」
セラの実家が傾いた理由が、ここで全部揃いました。倉を買われ、賃料を上げられ、払うために扱わない品を買わされる。どの段階にも脅しはなく、規定にも触れていません。
「説明したところで、お嬢様に何ができましょう」は、父が答えなかった理由そのものです。三年前は本当に何もできませんでした。だから彼女は「いまは、少しできます」と言い返します。
次回、グレンが三年前の話をします。城壁の上で、風の強い日です。
【今日の遠征飯】練り物一枚(商談用)/制約:十万のうちの千百人/ひとこと:倉に置いていないものは、買い取れません。




