第25話 閉まった食堂の前で
王都に戻ったのは、峠を降りて四日目だった。
ニコさんとリィズさんと、わたくし。荷馬車は使わず、歩いて戻った。荷馬車は峠に残してきた。
街の様子は、報せで聞いたとおりだった。東門を入ってすぐの通りに、食堂が七軒ある。開いているのは三軒だった。残りの四軒は板を打ちつけて、紙が貼ってある。
――麦の値上がりにつき、当面休みます。
◇
市場へ行った。人はいる。買っている人は少ない。麦の袋の前に立って、値を見て、離れていく人が多かった。
わたくしは値札を見た。三倍と聞いていたが、四倍になっていた。豆は三倍で、塩は変わらない。塩はロッシュ商会が扱っていないからだ。
「油も上がってるわね」
リィズさんが言った。
「油は倉に置きやすうございますので」
「置きやすいと上がるの」
「置いておける品ほど、出す量を絞れます。腐るものは絞れません」
わたくしは葉物の値を見た。こちらは平年並みだった。
◇
救貧の帳面は、市の役所の三階にあった。閲覧の許可を取るのに半日かかった。取れたのは、ダリウス様に照会の書式を書いていただいたからだ。用件を伝えると、あの方は理由も聞かずに羽根ペンを取って、規定の番号を添えた一枚を寄越した。礼は要りません、規定です、と言われた。
ニコさんは帳面を開いて、一刻ほど動かなかった。
「セラさん」
「はい」
「これ、家の数で二千三百」
「人数は」
「九千八百くらい。子どもが多い」
「その中で、いちばん危ういのは」
ニコさんは指を三か所に置いた。
「ここ。南門の外の三つの区」
「なぜでしょう」
「家の人数が多くて、大人の収入の欄が薄い。日雇いばっかり」
ニコさんは頁をめくった。
「あと、この区は井戸が遠い。運ぶ人手がいるから、その分だけ働ける時間が減る」
「そこまで書いてございますか」
「書いてない。けど、井戸の場所は知ってる。おれ、この辺で育ったから」
わたくしは綴じ本にそれを書き取った。三つの区で、千百人ほど。全部ではない。全部は無理だ。千百人なら、届けられる。
◇
南門の外へ行ったのは、その日の夕方だった。建物が低い。道が細い。子どもが多くて、皆こちらを見た。
わたくしは荷を下ろして、鍋を出した。それから、道端の草を一株抜いた。細い葉が束になっている。根が太い。
「これを、食べます」
誰も答えなかった。人は集まってきていたが、遠巻きだった。上等の上着を着た女が来て、草を抜いて、食えると言っている。そう見えているのだろうと思った。
◇
「毒じゃないの」
最初に声を出したのは、十歳ほどの女の子だった。
「毒ではございません。ただ、そのまま煮ると舌が痺れます」
「痺れるんじゃん」
「はい。ですから、灰を使います」
わたくしは焚き口から灰を一掴み取って、湯に溶いた。
「この湯で二度茹でると、痺れが抜けます。抜けたら、刻んで、粉と混ぜて練ります」
「粉って」
「麦でも、豆でも構いません。半分でよろしいです」
女の子が眉を寄せた。
「半分でいいの」
「半分で足ります」
人の輪が、少しだけ狭くなった。
半分、という言葉に反応したのだと思った。四倍の値のものを半分にできるなら、値は実質二倍になる。二倍なら、払える人が増える。
このあたりの人たちは、値の計算が速い。速くないと生きていけないからだ。屋敷にいたころ、わたくしは麦の値を知らなかった。知らなくても暮らせたし、知らないことが恥ずかしいとも思わなかった。いま、値を知らない人はここに一人もいない。
わたくしは練り物を焼いた。焼いて、割って、いちばん近くにいた人から渡した。最初に受け取ったのは、その女の子だった。
噛んで、しばらく黙って、それから言った。
「……ふつう」
「はい」
「うまくはない」
「うまくはございません」
わたくしは頷いた。
「ですが、明日も食べられます」
◇
その夜、区の集会所を借りて、灰汁の抜き方を見せた。集まったのは三十人ほど。半分は子どもだった。
やり方は三つだけ伝えた。灰で灰汁を抜くこと、粉を半分にすること、それから薄く伸ばして乾かすと保つこと。三つ以上は伝えない。伝えると覚えられないと、母が言っていた。一度に三つ以上教わった人は、翌日に一つも残らないのだと。
実演のあいだ、一つだけ嘘をつかないように気をつけた。この練り物は、麦の代わりにはならない。麦を半分に減らせるだけだ。全部を置き換えられると言えば、その場では喜ばれる。喜ばれたぶん、三日後に「話が違う」と言われる。だから最初に言った。半分です、と。半分より上を約束すると、こちらの言うことが全部薄くなる。
帰り際、女の子がついてきた。
「明日も来る?」
「明日は別の区へ参ります」
「じゃあ、ここは」
「あなたが教えてください」
女の子が固まった。
「わたし、今日習ったばっかりだよ」
「三つだけです。覚えておられますか」
「……灰と、半分と、薄く」
「では、できます」
◇
宿へ戻る道で、ニコさんが言った。
「あの子に教えさせるの、ずるくない?」
「ずるうございます」
「認めるんだ」
「わたくしは三つの区で手一杯です。三つの区で千百人。王都は十万おります」
わたくしは夜の通りを見た。閉まった食堂の板の上に、月が当たっている。
「わたくしが十万人に教えるのは無理です。ですが、三十人が三十人に教えれば、九百人になります」
「その九百人がまた教えたら」
「二万七千人です」
ニコさんが立ち止まった。
「……三回でそこまで行くの」
「行きます。掛け算ですので」
もっとも、実際には三回で二万七千人にはならない。教わっても作らない人がいるし、作っても続かない人がいる。半分に減れば十分だと思って、そこで止まる人もいる。
それでも、増える方向には動く。減らないものを配ったのだから、減りようがない。運んだ荷は食べれば消える。教えたやり方は、教えた人の中に残る。
◇
宿の前で、リィズさんが待っていた。手に紙を持っている。
「早馬よ。峠から」
「六日で終わりましたか」
「五日ですって」
わたくしは紙を受け取った。短い文だった。街道は通した、明後日には戻る、とだけ書いてある。その下に、一行だけ足してあった。
――そちらは、食っているか。
わたくしは紙を二度読んだ。二度読んでから、リィズさんに気づかれない角度でそれを畳んで、綴じ本のあいだに挟んだ。
この二日、自分が何を食べたかを思い出そうとした。思い出せなかった。三つの区を回って、灰を焚いて、練り物を焼いて、配って、そのあいだに何かは口に入れたはずだ。入れたはずのものを覚えていないのは、たぶんいい状態ではない。
わたくしは宿の厨房を借りて、鍋に湯を沸かした。二人ぶん作った。一人ぶんは自分で食べて、もう一人ぶんは明日の朝に回した。余らせておく癖が、この八十日あまりでついていた。
「うまくはない。ですが、明日も食べられます」は、この物語の芯にいちばん近い台詞だと思って書きました。セラの料理は、おいしさで人を救いません。明日の分を残すことで救います。
三つ以上教えない、というのも母の言葉です。一度に三つ以上教わった人は、翌日に一つも残らない、と。
次回、ロッシュ商会の倉へ行きます。石の壁に触ると、あの商いの正体が少しわかります。
【今日の遠征飯】草の根の練り物(作り方の実演)/制約:千百人/ひとこと:灰と、半分と、薄く。三つだけです。




